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泉絵師 遙夏
泉絵師 遙夏
novelistID. 42743
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私に還る日

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 宏美の言うように、この二人には浮ついた噂のひとつも立たない。火のないところに煙は立たないと言うが、二人の場合はその火種すらないありさまだった。だからといって不美人であるというわけでは決してなく、世間では中――二人にしてみれば、中の上――ほどには位置しているだろう。要するに、普通なのである。
「そうか、ルクソールか……」
 宏美は時計のことに話を戻した。「じゃあ、同じのはもうないってことね。残念」
 宏美とて、ルクソールがアンティークショップだということくらいは知っているのである。
「でも、懐中時計ならデパートなんかにも売ってるわよ」
 気落ちする宏美を励ますように、暖野は言った。
「ねえ、その時計、よく見せてよ」
 今さら隠す必要もないので、暖野は時計を手渡した。
「落とさないでよ」
「わかってるって」
 宏美は時計を受け取ると、様々な角度からそれに見入った。
「なんだ、停まってるじゃない」
 上蓋を開けて、宏美が言う。
「動かないのよ」
「壊れてるの?」
「一応、修理には出したんだけどね」
 暖野は、時計屋の御崎の話をかいつまんで宏美に話した。
「ふうん。おかしな話もあるもんね。どこも悪くないのに動かないなんてさ」
「だからね、どうやったら動くようになるかって、考えてたのよ」
 実際にはもっと別のことを考えていたのだが、それを話せばさらにややこしくなる。かと言って、時計を動かす方法を全く考えていなかったわけでもない。ただ、考えなければならないことの順位では、それは決して上位を占めているとは言い難かった。
「動かなきゃ、時計はがらくただもんね」
 宏美がもっともらしく言う。
「そんな夢のないこと言わないの」
「だってそうじゃない。あの店にある物も、結局は大型ゴミに出しそびれたまま放ったらかしになってたものなんじゃないの?」
「う……ん。そんな言い方もできるのか……」
 暖野は呻った。「でも、そんな現金なことばかり言ってたら、男も寄りつかないわよ」
「そんなものなのかなあ」
 宏美が考え深げな顔をする。
「でも。これ、何で出来てると思う?」
 暖野は訊いた。
「さあ。私、詳しくないから。まさか、金じゃないでしょ?」
 そう言いつつも、宏美は時計を凝視した。「暖野。これ、幾らしたの?」
「3500円」
 ルクソールのマスターのように、暖野はぶっきらぼうに言った。
「だったら、絶対に金じゃないわね。でも、いいデザインね。暖野にそんな趣味があるなんて、私知らなかった」
「普通、ああいう店で売ってる物なんて、到底手が出ないから」
「そうね。これが動けば、掘り出し物ってことになるのかもね」
「そうね。今度、宏美もよく見てみたら? 結構気に入ったのがあるかも知れないよ」
「まあ、気が向いたらね」
「いいものは自分で探さなきゃ見つからないものよ。それに、時機を逸したら二度と手に入らないこともあるんだし」
 暖野は我知らず説教じみた言い方になっていた。そして、自分の言ったことの内容に、何かしら空恐ろしさのようなものを感じてかすかに身震いした。その小さな怖気は、しかし宏美の次の言葉によって救われた。
「それはわかるわ」
 宏美が、さも納得したような顔で言った。「私だって、この前秀君のチケット取りそびれたもん。高かったからちょっと迷ったのがいけなかったんだ」
「それとこれとは、違うような気が……」
 内心ほっとしながら暖野は言った。
「何よ。暖野には秀君の良さがわかってないのよ」
「今のアイドルなんて、百年経てば忘れられてしまうわ」
「そんな冷たいこと言ってるから、男にもてないのよ」
 宏美は先ほどの仕返しとばかりに言った。
「放っといてよ。お互いさまでしょ」
 暖野は宏美の額をこづいてやった。
 そのとき、暖野はふとあることに思い当たった。あの夢を見出したのはルクソールで時計を買ってからだということに。
 どうして、今までそれに気づかなかったのだろう――。
 時計と夢との間に、何らかの関係があるのだろうか。この時計はルクソールで買ったものだ。そして、ルクソールはアンティークショップである。古いものには何かしらいわくつきのものがあったりするが、自分の不安もそんなところに端を発しているのだろうか。
 今日の帰り、ルクソールに寄ってみよう、と暖野は思った。
「暖野。暖野!」
 激しく肩を揺さぶられて、暖野は我に返った。宏美が、今度は本当に心配げに顔を覗き込んでいる。「暖野、本当に大丈夫なの? 具合が悪いんなら保健室で休んだら?」
「いや、そうじゃなくて。ただ、寝不足なだけなのよ。……本の読み過ぎかな」
 暖野は自分の考えを悟られないように、努めて明るく言った。
作品名:私に還る日 作家名:泉絵師 遙夏