私に還る日
翌日、暖野はなんだかすっきりしないまま登校した。睡眠不足というわけでもないし、特にこれといった問題があるわけでもない。時計が直らなかったのはショックではあったが、そういうことでもなかった。しかしどういうわけか、朝起きたときから何かが変なのだ。家族の態度とか街の雰囲気などではなく、もっと自分の内面の何かが。
悪い夢でも見たのだろうか――
本当にそうなのかどうかは分からないが、おそらくそうなのだろう。どんな夢だったかなど完全に忘れてしまって、その余韻だけが残ってしまうことは、ありがちなことだった。
夢――
悪夢だったのかさえ思い出せない。訳もなくすっきりしない思いを引きずるのは心地よいものでは決してない。思い起こすことの出来ない夢は喉元に引っかかった魚の骨のごとく、暖野を苛つかせた。
それでも一時限目の授業が終わる頃にはそんなことも忘れてしまい、いつものありふれた日常に染まってしまっていた。
だが、この日を境に暖野は奇妙な夢に悩まされることになる。もちろんこの時点では彼女はそんなことになるなどとは、それこそ夢にも思っていなかったのだが。
次の日も、暖野は変に重い頭を抱えて登校した。やはりどんな夢だったのかは思い出せなかったが、この日は確かに夢のせいだということが分かっていた。そもそも夢というものは思い出そうと意識を凝らすほどに思い出せないものだし、内容も曖昧になってしまうものだ。なぜならば、夢は無意識の産物だからである。にもかかわらず暖野は今朝方見た夢を思い出そうと虚しい努力を続けた。
そうして一週間が過ぎた。
このころになると、おぼろげながらでも見た夢を憶えているようになっていた。
暖野はしきりに夢の内容を整理しようとしていたが、寝ぼけた頭ではなかなかそれも上手くいかない。授業中もどこか上の空で、教師の言っていることなどいっこうに頭に入ってはこなかった。
思い出せそうで思い出せない。こういう状況は厄介なものである。「やっと会えた」とか「迎えにくる」とか言った言葉が記憶の片隅にちらつくが、それが何を意味しているかなどわかる由もなかった。暖野とて夢占いをやってみたこともあるし本ももっているのだが、それは夢の中に出てきたもの、あるいは行動で占うのであって、どんな話をしたかで占うのではない。従って、暖野の頭痛の種は安易には解決できないのだった。
「どうしたのよ。ぼうっとして」
休み時間、宏美が声をかけてきた。宏美の席は暖野の斜め後ろにある。
「え?」
暖野にとって、それはほとんど不意のことだった。
「え? じゃないわよ。ほんとに、どうしたの?」
「私が? どうかしたって?」
おそらくこういうのを生返事というのだろう。暖野が言った。
「暖野、あんたこの間から変よ。何かあったの?」
「べつに……」
「べつに、ってことはないでしょう。何か悩みがあるんだったら、話してよ」
「私、そんなに変?」
「自分で気づかないの?」
宏美は、暖野の調子に苛立ったように言った。「机の上、見てみなさいよ」
暖野の机の上には、いまだに前の授業の教科書やノートが出しっぱなしになっていた。他の生徒達はもうとっくに片付けてしまっていて、気の早い者など次の授業の準備をしているというのに。
もちろん暖野も普段なら授業が終わると同時にペンケース以外は片付けてしまう。それに暖野は今が休み時間だということも知らなかった。つまり、授業が終わったことにすら気づいていなかったのだ。いくら宏美でも授業中に堂々と話しかけてくることなどないはずなのに、である。
「あ……」
「あ、じゃないでしょ」
宏美は呆れ顔で言った。
「ちょっとね……」
暖野は机の上を片付けると、軽く頭を振ってから言った。
「その、ちょっとね、がくせものなんだな。――ね。いったい何をそんなに悩んでるのよ」
「悩んでるんじゃないのよ、べつに」
暖野は苦笑していった。さっきまでの虚脱状態は、一応脱していた。
「じゃあ、何よ」
「ちょっと寝不足なのよ、最近」
「寝つきが悪いのは悩みがある証拠。隠し立てしないで白状しちまいなさいよ」
「ごめん」
暖野は言った。「今はだめ。あとで話すわ」
周りを見回して、暖野は言った。
授業の合間の教室など、やかましくて真面目な話などしていられるものではない。宏美もそのあたりのことを察してか、それ以上は突っ込んでこなかった。
すぐさま授業開始のチャイムが鳴る。二人はまたそれぞれの席に着いたのだった。
古文の時間、暖野はポケットからハンカチにくるまれた時計をそっと出して眺めた。金色の金属は彼女の体温を宿してかすかに温かかった。
その日、宏美はクラブの会合で急に呼び出され、暖野は暖野で用事があって結局何も追求されないままに終わった。