忘れられた大樹 前編
そのときだった。
カレリの声に答えたかのように、金切り声にあわせて大人たちの周りにあった太い木々が次々に倒れ始めたのだ。
サムの元に手を伸ばしかけていた男も、それを見てうろたえ、パッと手を引いて後ろへ下がり、倒れてくる木を必死によけた。木は轟音を立て、森全体を震わせるかのように全ての木の木立を共鳴させた。
「こっちだ!」
カレリたちの後ろから、声がした。
振り向くと、漁師たちとは明らかに違う男の人が、カレリたちに合図していた。
「木が守ってくれる。早くここから逃げろ」
カレリたちは何が起こったのかもわからなかったが、青年の言うことは瞬時に理解した。
木が守ってくれている。彼はそう言っていた、それだけは確かなようだ。
二人は、お互いに頷きあって、目の前に現われた背の高い青年について、森の中を右へ、左へとかけていった。
虫の息のウサギを抱えながら随分走ると、もうさっきの男たちの声も届かなくなり、日も暮れてしまっていた。
そこで青年は走るのをやめ、ゆっくりと歩き出すと、サムにウサギを渡すように言った。
不思議とサムは、青年の言葉をあっさりと信じ、抱えていたウサギを彼に渡した。何故なのかは分からない。助けてくれたからだろうか、危険な人間には思えなかったからだ。
すると、ウサギを抱きかかえながら、青年はそのまま少し歩いて泉を探し、サムとカレリの手を洗わせた。そこで、平らな石を見つけてウサギを寝かせ、清水で傷を洗ってから、近辺に生えている薬草を使って湿布にし、白い上着のポケットの中から包帯を出して巻いてやった。
「ウサギは俺がみているから」
青年は、そう言って、はじめてサムとカレリに笑顔を向けた。
「ハルの子供たち、だよな?」
青年はウサギを手当てしながら、サムとカレリに言った。
二人は頷いた。
「ハルを追ってきたのか」
「うん。でも、迷ってしまって」
サムが言うと、瑠璃色の瞳の青年は、少し寂しそうな顔をした。
「そうか。ハルを追っているのなら、草原に出ても、もう遅いかもな」
「そうなの?」
訝しげに聞いた二人に、青年は寂しそうな顔を緊張に変えた。
「大樹に案内しよう。そちらのほうが早い」
サムとカレリは、そのまま青い瞳の青年に助けられてハルの母木である樫の大樹までたどり着いた。
見ると大樹は壮麗で、周りには泉の沸く岩場と、その岩場から流れる水がいくつもの筋を作る草原が広がっていた。湿地だ。木の根は広場にも思えるその空間の地面の四方に張り巡らされ、見上げると暗い夜空に輝く月の光が地面に光を落とし、澄み切った水と塗れる草を銀色に照らしていた。
まるで夢の中の光景のように美しいその空間に足を踏み入れた瞬間、二人の子供は息を飲んだ。
「これ、ハルの大樹?」
感嘆の吐息とともに、後ろでウサギを抱いている青年を見上げ、カレリは言った。この木はなぜかものすごく懐かしい。まるで森の人そのものだ。ハルの木ならば納得がいく。彼がここから生まれてこの木と命を共有しているのだろうと思うと、自然と納得できた。
青年は頷いて、ウサギを地面に下ろした。
すると、不思議なことに、ついさっきまで虫の息のはずだったウサギは元気に草原を駆けていった。 ウサギはそのまま樫の木の大樹の元まで走り、根元まで行くと、カレリたちのほうを振り返った。
「あとは、あのウサギが教えてくれるから」
青年はそのとき、カレリとサムの頭を撫でて、笑った。
「ごめんな、俺はちょっと用があるんだ。しばらくここから離れるが、あとはナリアが何とかしてくれるだろう。それと」
訝しげに見上げる子供たちにすまなそうな顔をして、青年は白い上着のポケットに手を入れて、何かを取り出した。
そして、二人に掌を差し出すように言うと、その小さな掌に、茶色の丸いどんぐりを置いた。
「これは、この森で一番大切な木の実だ。もし本当にハルのことが好きならば、どんな事があっても捨てるなよ。いいな」
「もちろんよ!」
どんぐりを掌に握り締め、カレリは言った。
「ハルが大好きだもの。絶対に捨てないわ」
「そうか」
青年は笑った。
そして、もう一度だけ二人の頭を撫でると、大樹のほうを指さした。
二人が大樹に目を向けると、そこにはまだ先程のウサギがいたが、その小さな動物はサムとカレリを確認すると同時に、誰かの細く白い腕に抱え上げられてしまった。
見ると、そこには一陣の風が吹き、ざわざわと揺れる木立の下に、銀の髪の美しい女性が立っていた。
「ありがとう」
女性は、そう言うと、ウサギを放った。そして、サムとカレリの元に歩み寄った。
先程までいた瑠璃色の瞳の青年は、もう既に姿を消してしまっていた。いつの間にここから離れたのだろう、物音一つしなかった。
サムとカレリの正面に来ると、女性は二人の子供の背にあわせて膝をつき、優しく微笑んだ。
「私はナリア。この星の意識が具現化したもの。よくぞ、ここまで来てくれました。あなたたちは、ハルの子供たちね?」
サムとカレリは初めて出会うその女性に全く恐怖を感じなかった。ナリアと名乗ったその女性の青い瞳は優しく、物腰は柔らかくて、いい匂いがした。香水のにおいでもなく、コロンのにおいでもない。まるで、森の木々や花のようないい匂いがした。
サムとカレリが頷くと、ナリアは、握り締めた二人の右手を取り、その白く細い指で包み込んだ。
「あなたはサム、そして、あなたはカレリ。この森でもっとも高貴な、この実を、どうか大切に持っていて」
そう言って、ナリアは優しく微笑んだ。
「ぼくたちの名前を、知っているの?」
サムがそう、ナリアに尋ねた。彼女は、何も言わずに微笑んで、ただ頷いた。
「私たちは地球の魂が人に宿った姿。人は、それを星のシリンと呼びます。そんな私たちは、この星にあるすべての物を統べているのですよ。つまり、分からないことはないのです。これから、私は、星のシリンに定められた因果律を呼び起こしましょう。そして、あなたたちはそれを見届ける証人となるでしょう。よく見ておきなさい、ハルの子供たちよ」
そう言うと、ナリアは立ち上がり、どこからか、大きく厚い本を取り出していくつものページをめくった。そして、本の真中のあたりでその手を止め、開いた。
そのまま子供たちに背を向けると、丁寧に下草を踏みしめて大きな樫の木の根元まで行き、開いたままの本をその根元に置いた。そして、一番下に生えている細い枝を一本折り、その本の上に置いた。
「このまま生きて」
そう言い、ナリアは大樹を抱え込むように天を仰ぎ、胸に手を当てて目を閉じた。
「この森は星に守られます。未来永劫、長岐に渡り、わが命尽きるまで。そしてこの木だけが永劫に忘れ去られ、人の記憶から消えてしまうでしょう。風の刻印が刻まれるその日まで。それでも、人の業が消えぬというのなら、この森は一つの答えを彼らに示すのです。そのために、私はこの木をいったん封じます。子供たちよ」
大樹に向かって話しかけていたナリアは、胸に手を当てたまま、そこに座り込んだ。
作品名:忘れられた大樹 前編 作家名:瑠璃 深月