忘れられた大樹 前編
ロックストン兄弟とその姪は、回りに気づかれないように気を使いながら、ハルの背中に拳銃を突きつけたまま喫茶を出て、街の脇を通る暗い路地裏に連れて行った。ハルはその路地の袋小路を背に、三人の人間に囲まれてしまった。
ロックストンの兄、つまりサムの父親だった男は、そこで拳銃をおろし、今度はナイフを取り出した。
「あんたには、世話になったよ。だから、世話ついでにおれ達のすることを見逃してくれないか」
切っ先が鈍く光るナイフを嘗め回すように見ながら、サムの父親は言った。
「それにしても、ここまで来るのには苦労したよ。あの森にはそうそうと入れるもんじゃなかったからな。世間の目をごまかして、祖国の追っ手を振り切って、ようやくこの弟と姪のいる町にたどり着いた。おれは祖国では名の知れた密猟者だったからな。だから、森に入るために、そこにいる姪のヒルデとともに拾い子のサムを息子に仕立てた。入ったら最後、密猟者は出ることができないと言われているあの「シリンの森」に入って道を覚えるには、それが一番良かったからな。それに加えてあんたも村の連中も、おれとヒルデを全く疑わなかった。お人好しだったよ。だから、甘えさせてもらったって訳さ」
話し終わって、サムの父親だったその男は、改めてハルに自己紹介をした。
サムの父親の名はハワード。
その弟はロイ。先ほどまでの紳士だ。
そして、姪、つまりサムの母親はヒルデ。
三人は再度ハルに握手を求めたが、ハルはそれを拒んだ。
「シリンであるはずのあなたが」
三人の大人に囲まれ、声を震わせながら、ハルは心の中から湧き出てくる悲しみを静かに呼び起こした。
胸の奥から、腹の底から、今まで感じたことのない感情があふれ出してくる。
これを憎しみと言うのだろうか、それとも、怒りと言うのだろうか。
「ハワード、あなたはシリンであるはずだ。少なくとも、私の 母木はそれを感じたからあなたの立ち入りを拒まなかった」
「そうだな」
ハワードは、ため息をついた。
「確かに、おれはシリンだ。だがな、生まれてからずっと森で暮らして平和に生きてきたあんたには分からないだろう。おれは、シリンと言う種類の、木や森の記憶を持ってきた人間として生まれて来て、良かったなどとは今の一度も思ったことなどない。町に生まれたおれはその奇異な記憶や能力のせいで、とにかくいじめられたよ。小さな頃からずっと、大人になるまでな。いじめられても、いじめられても、それでもおれの中の森の記憶は消えてくれない。周りが毛皮で着飾っているのに吐き気がすれば周りは私を馬鹿にする。草花や食べ物を粗末にしている人間に何かを言えば狂人だと言われる。周りは私を、まるで狂った人間を見るような目で見たよ。だから、おれはまともな仕事にも就けず、親にも親類にも見離されて一人で生きてきた。闇の仕事にも手を染めた。生きるために、自分が一日食っていくために。そのためには、シリンとしての心も捨てなければならなかった。その気持ちが、お前には分かるか!」
ハワードは激昂して、顔を紅潮させた。
ナイフを握る手は震え、声は裏返り、目は見開いたまま、ただ話し続けた。
「いいか、おれがこの、密猟という仕事に手を染めてからと言うもの、おれの食い扶持は殆どこの弟が握っていた。おれの狩ってきた獣の皮を買ってくれるのはこいつと、姪のヒルダだけだ。おれ達は三人で生きてきた。そうさ、おれが前にいた町、あの町の近くの森で狐を狩りすぎたのはこのおれだよ。おかしいだろ、シリンが、シリンの住む森を追い詰めて、銀の森にしちまった。そして、この町に落ち延びてからと言うもの、どんなに苦しい思いをしたか! 獣が捕れなければ弟にも見放されちまう。そうなればもうお終いだ。だから、おれにはあの森で獣を狩るしかなかった。」
「あたしたちはさ」
ハワードが落ち着いてくると、ヒルデが口を開いた。
「こいつがいじめられたのを見てきたのさ」
そのセリフに、ハルだけでなく、三人の兄弟たちも黙ってしまった。
シリンであることが決して幸せなことではない。たしかに人間である限りはそうかもしれない。森で育ち、当たり前のようにシリンをシリンとして扱って貰えたからこそ、ハルは自分のこの性質に埃がもてたのだ。
街の喧騒を遠くに、静かに路地裏に佇んだ人間たちは、しばらくそこで沈黙を続けていたが、ふと、その静寂をハルが破った。
「そんなに、酷かったのですか」
その言葉に、ヒルデが頷いた。
「シリンがその誇りを捨ててしまうほど、酷かったのですね」
ハルが確かめるようにもう一度尋ねると、今度は三人ともが黙ったまま、それぞれの目を地に落とした。
すると、ハルは黙ってしまった三人をそれぞれ見渡した。
「そうですか。話は分かりました。それでも、私は、森へ帰らなければなりません。ここを通してください」
作品名:忘れられた大樹 前編 作家名:瑠璃 深月