忘れられた大樹 前編
さて、ここで話は少し時間を遡り、一方に移る。
町の広場に面した喫茶店でロックストンに出会ったハルは、軽い挨拶を交わした後、彼の話を聞くことにした。
言われるまでもなくロックストンは話を始め、そのずるがしこそうな瞳で終始ハルを見つめていた。まるで一挙手一投足を見張られているように感じたが、ハルはできるだけ嫌な感情を表に出さないように勤めた。相手がどういった人間なのか、未だにつかめていなかったからだ。
ロックストンの話は、森でサムの母親に出会ったことから始まり、彼女がどのように自分の商売に関わっているのか、それがどのような効果を生んでいるのかに至った。更に話は進み、森の村での生活をハルに尋ねたり、自分の知っていることを自慢したりもした。
その途中、ふと、話は輸入の狐の毛皮にたどり着いた。
「森が、突然消えたと言う話はご存知ですね?」
ロックストンは、ふと神経質な表情をしてハルに尋ねた。
婦人に聞いた、とハルが返すと、紳士は何度か深く頷いて、ハルのほうに顔を寄せて神妙な顔つきでこう言った。
「あれは、銀の森と言うのでしょう。」
その一瞬、ハルの背中が凍りついた。
「銀の森」は、おおよそシリンにしか言い伝えられていない。このことを知る「シリンでない」人間は殆どいないはずだ。
なのに、何故この人は知っているのだろう。
「そう驚かないでください」
いかにも驚いた顔をしていたハルに、紳士はにやりと笑いかけた。
「私にもシリンの知り合いがいてね。『彼』が教えてくれたのですよ」
『銀の森』とは、シリンのなきがらと称され、彼らの間では最も忌み嫌われている現象だ。森が枯れ、動物が死に絶え、森が森としての形を失いかけた時に、その森に住むシリンが自らの母木を燃やし、命を絶って、燃やした後にほかのシリンが、死んだシリンの木の種を植える。そこから生えた若木は葉の先から根の先まで銀色で、その木を囲む全てのものも銀色に染まる。その裏で、滅びかけた森は何千年もかけて再生を始める。そのあいだは銀の木がその森の存在を隠してしまう。そう、千年も二千年もそのまま、その森は、その森を守るシリンと少しの動物たちを除いて立ち入ることが出来なくなるのだ。周りの人間は森を忘れ、記憶の彼方に置きさって思い出さなくなる。ふと思い出してその森に向かっても、入った瞬間に銀の森へと誘われてしまい、ともすれば一生迷い人になって出られなくなってしまう。
そのことをなぜか知っていた紳士は、口元で笑いながらハルから離れ、珈琲をすすった。
「貴殿は、この街から草原を渡っていった先の大きな森のシリンだとか」
珈琲を飲み干し、煙草に火をつけて、紳士はまた笑った。
ハルが頷くと、紳士は夫人の肩を抱いて、もう一度ハルに顔を寄せて、小声で言った。
「私が貴殿にこうやってお会いしているのは何故か、もうお分かりになりますね?」
ハルは、その紳士の狡賢い瞳に、吐き気がした。
この男は、ただ戯れにこのようなことを言っているのではない。
交渉を持ちかけているのだ。森がほしい。毛皮を狩る為の森が。
「分かりますが」
ハルは、ロックストンの顔を避けながら、返した。
「その交渉は受け容れ難い」
しかし、ハルのその返事に、ロックストンはしてやったりと笑った。大声で嘲笑しながら、立ち上がってハルを指さした。
「貴殿は受け容れざるを得ない!」
その瞬間、勝ち誇った紳士の目は、ハルの頭上を見た。なんだろう、いったいこの紳士は何を言っているのだろう。不思議に思ってその視線の先を見る。立ち上がらなければみられなかったから、立ち上がって見た。
すると、ハルは、立ち上がり際に振り向いて、声を失した。
そこには、拳銃を手にした男が一人、立っていたのだ。
ハルの背中にその暗い筒の先を押し付けている男は、ハルを見て、にやりと笑った。
「あなたは、何故?」
ハルは、目の前にいた男を見て、声を震わせた。
まぎれもない、サムの父親だった。
「弟なんだよ、この紳士は」
そう言って、サムの父親はハルの背中に突きつけた拳銃を更にぐいっと押し込んだ。
「そして、そこにいる女は、おれの姪だ。サムは拾い子だよ。おれたちの正体を隠すために都合がよかったからな。さあ」
そう言い、サムの父親は紳士と婦人に目配せをした。
「外に出てもらおうか。そこでゆっくりとお話をしよう」
作品名:忘れられた大樹 前編 作家名:瑠璃 深月