超短編小説 108物語集(継続中)
されども、たとえ人生の終盤においても厄介な事態は起こるもの。この期に及んで、苦難を共にしてきた妻の夏子が夕飯時に、鰺の干物の身をほじくりながら仰りました。
「あなた、毎日全日空なんでしょ。だったら、青春時代にやり残してきた事でもやってみたら」
まことに心暖まる提案だ。
されど魂胆がありそう。そこで一郎は「夏子の場合は何をしたいんだ?」と聞き返した。
すると夏子は半世紀振りに女学生の眼差しをし、夢見心地で「トップスターのオッカケよ」と。そして一拍置き、「ヅカ命よ、だから家を空けることが多くなるから、よろしくね」と冷ややかな笑みを滲ませビールをグビグビと呷った。
一郎は「了解です」としか返せなかった。
そんな時に二郎が「夏子のアナザー・ミーは誰だか知ってるか?」と一郎に訊いてきた。
妻のもう一人の自分て?
一郎が頭を捻ってると、二郎が教えてくれる、「心が氷点下の…冬子だよ」と。夏子には冬子が棲み着いていたのだ。これで一郎は夏子と歩んできた人生、すべての謎が解けた。そうだ、あの時のケンカ相手は冬子だったのかと、目から鱗がポロリと落ちた。
それにしてもこんな小さな家で、一郎、二郎、夏子、冬子の4人で暮らしてきたのかと感慨深い。
されども一郎は「青春時代にやり残してきたこと、夏子がオッカケなら俺は、そうだ、フラメンコ・ギターだ、早速習いに行くぞ」と言い切った。
この放言に、二郎/夏子/冬子の面玉がビー玉の如く飛び出した。
作品名:超短編小説 108物語集(継続中) 作家名:鮎風 遊