超短編小説 108物語集(継続中)
「ここに座ってもいいかい?」
突然、一人の婦人が声を掛けてきた。
「どうぞ」と答えながら女性を窺うと、亡くなった母と同年代のようだ。
おもむろに腰掛けた婦人が小さく呟く。「また会えましたね」と。
洋介は、婦人がこの桜に会いに来たのだと思った。こんな二人、ベンチで肩を並べ、しばらく桜に眺め入っていた。そして、その沈黙を破ったのは婦人。
「お兄さんは……、昭和育ちかい?」
いきなりお兄さんに、昭和とは。思いも付かない問い掛けに、洋介は缶ビールを頬にあて、一拍の間を取った。
「そうですよ。お母さんもでしょ?」
わかり切ったことだ。それでも話しの流れで訊いた。
婦人は凜としたまま、桜から目線を外さず、「戦前生まれでね、いろんなことを見てきたんだよ」と静かに語り始める。
進退窮まった太平洋戦争、学徒動員でね、学生さんたちがここから戦場へと。それからすぐのことだった、ここに多くの人が集まって、玉音放送を聴いたんだよ。
洋介は戦後育ち、戦争を知らない。大変でしたね、としか言葉が浮かばない。
敗戦で、世の中ががらっと変わった。この桜の周りにも闇市が立ってね。だけど、それも束の間、桜の木の下に紙芝居がやって来てね、子供たちが集まるようになったんだよ。缶蹴りや三角ベースで賑やかだった。
花見の頃はぼんぼりが灯り、たくさんの露店が並ぶようになり、たこ焼きが売られ始めたのも、その頃のことだったかなあ。幼い兄と妹が桜の下で分け合ってたこともあったね。
洋介はこんな話しを聞いて、胸にじんとくる。
婦人はそれに構わず──、
街頭テレビが設置され、プロレス観戦で黒山の人だかりになった。それからしばらくして学生運動が勃発し、ここで開かれた集会に機動隊が突入した。その後、高度経済成長で、女の子のスカートが短くなり、挙げ句の果てにバブルとなった。花見はドンチャン騒ぎとなり、女たちは扇持ってクネクネと踊り出す始末、と昭和時代を一気に喋り、最後は丸っきり品がなくなったんだよね、と締めくくった。
作品名:超短編小説 108物語集(継続中) 作家名:鮎風 遊