楽園
ゆっくりと階段を登る老人が姿を現した。老人はバスの車内を見渡し雨宮と
目が合うと少し微笑むだけでそのまま雨宮の2つ前の椅子に座った。バスの扉
は再び音をたてて閉まり、バスは再び動き出した。
俺以外に乗客がいるのか───?
そのことに不思議と安堵を覚えた雨宮は何故か例えようのない今まで経験し
たことのない心強さをその老人から感じ取っていた。自分と同じ境遇に立って
いる人間を見ると少し落ち着くのと同じで、それと同じような安心が確かに自
分の中にあるのを感じていた。
しかしこれが夢ではないということは既に百も承知で、胸の内から少しずつ
吐き気が昇ってくる。
どれくらい経ったのだろうか、雨宮はどうすることもなく成す術もなくただ
最後尾の椅子に座り続けていた。喉が渇き額に掻いた汗が非情にもこの世界が
夢ではないことを淡々と告げていた。
すると変化が起こった。平坦な道を永遠と歩き続けているこの景色に1つの
変化が起こった。2つ前に座っている老人が何かを思い出したかのように雨宮
の方をゆっくり首だけ振り返り言葉を発した。
「もしかして、君は雨宮篤生かね?」
「あ、はい。そうですが」
暫く出していなかった声が上ずり少し裏返る。雨宮が驚きに満ちた顔でそう
言い返すと老人は優しく微笑んだ。
「そうか、君が雨宮篤生か」
老人は何が可笑しいのか相変わらず微笑みながらこちらを上半身だけ向けて
皺くちゃの顔を更に皺くちゃにする。その顔は優しさに満ちた顔だった。自分
の名前が初対面の人間に呼び捨てにされたというのに雨宮の心に乱れはなかっ
た。
「久しぶりだね...いや久しぶりというのは少し変か」
老人はカッカッと喉の詰まるような笑い方をした後あくまでゆっくりとした
動作で雨宮の隣に腰を落ち着かせた。
「あの、俺のことを知ってるんですか?」
「あぁーよぉく知っておるよ」
老人は手に持った杖をぎゅっと握り締めると幾つか抜けた歯を雨宮に見せた
。その動作でさえ老人がまるで違う時空にいるかのように錯覚するほど遅かっ
た。
「あの、ここはどこなんでしょうか」
老人が先ほどの会話から何も喋りださないため仕方なく雨宮は自分から話し
かけていた。すると老人は聞いていたのか聞いていなかったのかイマイチよく
分からない反応をして、何かを思い出すかのように雨宮を見た。
老人の目からはただ純粋に"暖かさ"だけが流れ込んでくる。全てを包み込む
ような暖かい日差し。それらが雨宮の心の奥の芯まで掴んで離さない。
「ここは、死の世界と生の世界を繋ぐ道だよ」