リ・メンバー
メンバー2 わたしを許してあげる
今日の仕事も無事に終わった。英語学校の講師という仕事はやっぱり好きだ。人と接する仕事は本当にいいものだと思う。今日もたくさんの笑顔を見られた。生徒さんから本当にたくさんのものをもらっている。
この間もひとりの生徒さんが、「先生のおかげで英語恐怖症が直ったよ。ミスっても先生が笑顔でいてくれるからぜんぜん気にならない」と言ってくれた。この言葉はほんとうに宝物。
今日は学校の日本人チーフが、「ユリさん、この頃すごくきれいになったね。顔がなんだか違うよ」と言ってくれた。この言葉も嬉しかった。
わたしはようやくここまで来られたのだ。前よりは素直に日々のことを喜べるようになったと思う。
わたしの‘自分嫌い’はいつから始まっていたのだろう。子どものころ、わたしは自分のことをどう思っていただろう。よく思い出せない。 でも小さい頃から、なんでもちゃんとしようという気持ちが強かったようだ。
でももちろん人間だからそういつもちゃんとはできない。で、失敗する。
問題はここだった。どんな小さな失敗でもわたしには笑い飛ばすことができなかったのだ。すると猛烈な罪悪感と自己嫌悪が襲ってきてわたしのこころの中は砂が入ったみたいにざらざらしてくる。情けない自分に腹が立って嫌いになる。どこまでも落ち込んでいって自己嫌悪、のパターン。これが、長い間抜け出せなかった大きな鉄の囲い。
でも、このままではだめということはわかっていた。どうしても自分のことを好きになる必要があった。
英語学校に行く途中にカウンセリングルームと書かれた看板がある。 ずっと気になっていた場所だった。コンビニの2階にある。人が出入りするのはあまり見たことがない。
なかなか足を踏み入れるまでにはならなかったのに、半年前、わたしは何のためらいもなく急にそこに入っていった。決心なんてする必要さえなかった。
男のカウンセラーはわたしとおそらく同年代。彼はとても穏やかに言った。
「今日はどんなことでいらっしゃいましたか?」
「自分のことをどうしても好きになりたくて」
「そうですか。もし好きになることができたら、あなたはどうなりますか」
どうなる?そんなことを考えたことはなかった。わたしは必死で考えて言った。
「自分のことをすごく大切にできると思います」
「もし自分のことを大切にできたら、どんなことが可能になりますか」
大切にすると何が起こるのだろう。経験がないからわからない。でも浮かんだ答えを口にした。
「自分を責めないでいられるし、軽くなってスキップとかできそうです」
カウンセラーは明るい声で笑った。少しほっとした。
「スキップとは楽しそうですね。では、こうしてください。簡単なことですよ。わたしのこと大好き、って毎日声に出して言ってください。 たとえ、本当は大好きじゃない、という想いが起こっても気にせず言い続けてください。その想いは必ず消えますから」
「好きではない、という気持ちはずーっと持っていたものですから、ドロドロしていてしぶとくて、並大抵なことでは動かない気がするのですけれど・・・」
と、わたしが言うと、カウンセラーは表情を変えずに言った。
「好きになりたいという気持ちは、好きではないという気持ちよりずっとこころの深いところからきているのですよ。自分を好きでいることがどんなに大切なことなのか、実は自分でもよく知っているのでしょうね」
カウンセラーの言葉には説得力があった。
「この年齢からでも本当になんとかなりますか?」
「あなたは自分のこころの叫びを聞いてここにいらっしゃったのです。こころの扉を開けて、次の場所に行きたいと願っているのでしょう。何歳でも、あなたが望んだときが手に入るときですよ」
カウンセラーの言葉はとても力強く温かかった。
あまりにも簡単な処方箋だった。でも、重いものがドンと肩から降りた。大事なことは案外シンプルなものなのかもしれない。わたしはいろいろなネガティブな想いを後生大事に抱え込んでいたようだ。
わたしはそれから毎日何回でも気がつくと、大好き大好き、と言い続けた。ときには下を向きながら暗い気持ちで言うことだってあったけれど、ひと月、ふた月と経つうちに、効果が出てきたのが自分でもわかった。
今では胸を張って自分のことを好き、と言うことができる。そして我ながらバカだなあと思うことも、それを引きずらないで、自分のことを許せるようになったのだ。感情的には許せなくても、とりあえず、わたしを許す!と口に出して言ってみる。すると、本当にその通りになるのだった。
自分を許す、なんてとんでもないと思っていた。自分を甘やかすこととイコールだという気がしていたので、そんなことをしたらわたしは人間として成長できない、とずっと信じていた。自分に厳しくすることを誇らしくさえ思っていたのだ。
でもこれは大きな間違いだった。自分を許して初めて成長できることをわたしはようやく知ることができた。そのままを受け容れると、前向きに生きていけるのだった。少しずつそうしていくようになって、わたしは自分の周りに淀んでいた空気が変わっていくのに気がついた。
深刻過ぎた自分に、永遠にさよなら!
カウンセラーは「自分との関係がすべての人間関係の第一歩なんです。あなたが自分を大好きになると他の人との関係もきっと違ってきますよ」と言った。もしそんな風になったらどんなにすてきだろう。
アパートに帰るとポストに手紙が入っていた。お母さんからだった。今日はきっと手紙が来ている、と思っていたので、アタリと口に出して言った。
よくお母さんは手紙をくれる。お母さんの手紙は自分が開いているお花の教室の話や、お父さんの趣味の釣りの話が書いてある。寝る前にゆっくり読もうとわたしは手紙をベッドに置いた。そしてひとり鍋で夕食を済ませた。
昔は自炊もあまりしなかった。おしゃれなレストランの食べ歩きが大好きだったし・・・でも今はこのアパートでなるべく自炊している。この質素な生活ができるようになったことをとても感謝している。
びっくりするほど持っていたブランド品も今は手元に残していない。
かつての生活は幻のようだった。自分の稼いだお金で手に入れたいものを買い、旅行をして、満ち足りた気分になっていた。でも地に足がついていなかった。
今のわたしの方がずっと、生・き・て・い・る。
11時近くになってようやくわたしはお母さんからの手紙を開いた。
お母さんからの手紙は1枚で、自分のこともお父さんのことも書いてなかった。若い男の人が急に訪ねてきて、ある人から預かったというあなた宛の手紙を届けてくれた、といういきさつだけが書いてあった。
わたしは封筒の中を見た。四つ折りの紙が入っていて、わたしの名前が書いてあった。わたしはゆっくりと紙を広げた。
『今ぼくが幸せなのはあなたのお陰です。こころからそう思っています。ありがとう。このことをぼくはあなたに伝えたかった。』
紙の隅に見落としそうになるほど小さくトムという文字が書かれていた。それは紛れもなくあの人からだった。