リ・メンバー
ぼくが働く電気店はバイパス沿いにあってかなり忙しい。でも仕事場でいい仲間はいる。彼女は、いない。女の子とは3ヶ月以上付き合ったこともないのだ。振られた回数は数知れず。男らしくない、と何度言われただろう。
休みの日は趣味のデジカメで写真を撮りに出かける。ぼくが好きなのは古い町並みの風景、たとえば縁台で涼む人とか坂とか狭い路地とか、その土地の人がいる風景だ。古い建物の入口や窓にも惹かれる。そこの奥にはぼくのまったく知らない世界が広がっている、だけどそこにもぼくと同じ人間が生きている、そう思うとすごくわくわくする。
居酒屋であのことがあってからひと月くらいが経っていた。
実は、あの男の人と会って手紙を預かってから、なんとなくではあるけれど、少しぼくの生活が前と違う気がしている。気持ちが弾んでいることがいちばん大きな変化だけれど、それだけじゃない。たとえば、ときどき寄る惣菜屋のおやじさんが、食べるか?といって梨をくれたり、めったに会わないアパートの隣の女の人が茹でたとうもろこしを持ってきてくれたり・・・
そう、こんなこともあった。本屋で知らない人から、よかったら、と言ってもらった抽選券でミネラルウォーター6本分が当たったのだ。このときあの男の人の顔が浮かんだから、この幸運の連続はひょっとしたら男の人のお陰かもしれない。あの人は誰だったのだろう・・・
だからとりあえずお盆よりずっと前に家に帰ってみる気になっていた。あの手紙を持って。
家に帰る当日、ぼくは男の人からもらった宝くじを換金した。宝くじは何度か買ったことはあるけれど当たったことはない。最近は買うこともなくなっていた。窓口でぼくはどきどきした。「おめでとうございます!」と窓口の女の人に笑顔で言われた。本当に当たりくじだった。受け取ったお金で乗車券とお土産を買った。実家に帰るときお土産を買ったのはこれが初めてだ。
実家の両親も元気だった。両親は不動産屋を開いている。突然の帰省でびっくりしていた。ちょうど自宅の洗濯機と冷蔵庫の買い替えを考えているとかで相談を受けた。ぼくの知っていることが役に立つのはとても嬉しい。初めてのお土産を渡すと母親は、これが有名な東京ばな奈?一度食べてみたかったのよ、と言って大喜びしていた。
午後ぼくは預かった手紙を届けようと母親の車で家を出た。
運転席に座ってそこでぼくは初めて、レポート用紙を四つ折りにした手紙を開いて中を読んだ。今まで開かなかったのは、いよいよその気になったとき読んでみて、ぼくの直感に従おうと思ったからだ。届けないほうがいいと感じる内容ならここでぼくは届けるのを止める、と決めていた。こここからはぼくのギャンブルだ。ものすごくドキドキする。
手紙には『今ぼくが幸せなのはあなたのお陰です。こころからそう思っています。ありがとう。このことをぼくはあなたに伝えたかった。』と書かれていた。たった4行だけの文章だった。
ふーん、と思わずうなってしまった。でもなんだか温かい手紙だった。おそらく届けたほうがいいと、ぼくは思った。
その名前の家はすぐ見つかった。あまりにあっけなく見つかったので拍子抜けしたほどだった。住宅街の中にある普通の2階建ての一軒家で、車が一台駐車場に入っていた。電話帳で調べてきたから間違いはなさそうだ。同じ苗字の人はこの辺りにはいない。
チャイムを押すとすぐ女の人の声がした。玄関に現れたのは60歳くらいの人だった。
「あの、こちらにこの名前の方はいらっしゃいますか」
ぼくはそう言いながら四つ折りの紙をその人に見せた。
「これはわたしの娘ですけど今はちょっと・・・。あなたは?」
女の人は見知らぬ者のいきなりの訪問に戸惑っていた。ぼくは、ある男の人からこの手紙をここに書かれている女性に渡すように頼まれたいきさつを話した。
「その人はどんな方でしたか?」
ぼくは例の男の人の年恰好や風貌や話を思い出すままに話した。
それを聞くと女の人は、ちょっとそれを拝見してもいいですか、と言った。ぼくが渡した手紙を読むと、その人の顔がぱっと明るくなった。 手紙には男の人の名前など何もなかったけれど、誰からなのかすぐにわかったようだった。
「娘はここに住んでいないのです。でもこれはわたしが責任を持って娘に渡します。お預かりしてもよろしいでしょうか」
ぼくに異存はなかった。それから女の人はぼくの名前と住所をぜひ教えてください、というのでぼくはメモ用紙に書いて渡した。
「あなたはそれをただ頼まれたからという理由だけで届けてくださったんですね。初めて会った人なのに、引き受けてくださったんですね」
女の人はぼくの顔をじっと見ながらぽろぽろ涙を流していた。
帰り際ぼくはその人に何度ありがとうと言われただろうか。あの手紙の重みはぼくにはわからないけれど、喜ばれる手紙に間違いなかったことだけは確かだった。よかった、とこころから思った。
翌朝ぼくは東京に戻ったのだが、電車の中で中学時代の同級生の女の子に会った。卒業以来初めてだ。女の子は本当に見た目が変わる。名前を聞いてもまだわからなかったほどだ。彼女は地元で会社に勤めているが、今日は休みなので東京に遊びに行くのだという。フリマに寄って、それから、と言いながら彼女はバックパックの中からデジカメ一眼レフを取り出した。
「東京の古い町が大好き。ものすごく古い家とかコケの生えた路地とかね。短大時代、東京に住んでいた頃はただ町をうろうろ歩き回っていただけだったけど、今はそういうのがすごく懐かしくて。色っぽい話もない上に、休日となると写真なんか撮りにふらふらしているって、親はあきれた顔しているけどね」
「驚いたな。ぼくもカメラが趣味なんだ」
へえっ、と彼女もびっくりしていた。
「わたしは地元の写真同好会に入っているの。今度展覧会があるから、もし帰省していたら見にきて」
ぼくはもちろん行く、と返事した。彼女はメルアドもくれて、よかったら写真を見せて、とも言ってくれた。
ぼくたちは東京駅で別れた。
ぼくはとても満ち足りていた。手紙は渡せたし、かつての同級生にも会えた。しかも彼女はぼくと同じ趣味を持っていた。手紙を届けた話をしたら、すごく不思議な話ね、と言ってくれた。
男の人にもらったCDのことをぼくはしばらく忘れていた。思い出したのはあの帰省からしばらくたった頃、手紙を渡した女の人から丁寧な手紙が届いたからだ。
それでCDを開いてみたら、それは西アジアの街を集めた写真集だった。びっくりした。だってぼくはそれを音楽のCDだと思い込んでいたのだ。
あのとき居酒屋では写真の話は出なかったと思う。だからこれはドンピシャの一致ということになる。イスタンブールやテヘランの本当に美しい街並み。
この話も彼女にしよう。
ぼくは彼女の写真同好会の写真展に行った。そしてそこで付き合って下さいと言った。彼女は、いいよ、と言ってくれた。