天使は誰も救わない
桜で囲まれた公園は、滑り台、ブランコ、砂場、電車を描いた土管がある、よくあるタイプの児童公園。平日らしく小学生の姿はまだなかった。昼時だからだろうか、今の私のような子供及び保護者の姿は見えない。テンの第六感を頼りに無人の公園を見て回る。象型の滑り台がとても大きく見えた。
「さやちゃん」
ふと背後から呼ばれた自分の名に反応して振り向くと、そのうち私がお下がりとしてもらうになるセーラー服を着たみっちゃんが手を振っていた。
「……みっちゃん」
十年後の彼女が蘇って思わず泣きそうになる。今のみっちゃんに渡しても意味はないと指輪を園服のポケットにしまい、駆け寄った。この明るい時間にいるということは卒業式関係で早く終わる時間割だったのかもしれない。
「……お友達?」
身長の低い私に屈んで尋ねる内容は、私と共にいた金髪碧眼の少年の正体。何と説明しようかと迷っていると、テンは掌を振り、「ハロー」と笑顔で挨拶した。これにはみっちゃんも面食らったらしい。「ハ、ハロー」と慌てながらも立ち上がり優雅にスカートの裾を捌く。その姿を見て、私はこんな時代からみっちゃんの背中に憧れていたんだと知った。
「……お友達、何ていうの?」
「テン」
「そう、テン君っていうの」
こしょこしょ内緒話して、みっちゃんはさて困ったなとちょっと笑顔を引き攣らせた。授業でやった英語を活かす時だよみっちゃんとエールを送りながら、見事外国人になってしまったテンを盗み見る。公園を再度見渡し、天使様がいないか確認しているようだった。
にゃあ。
どこからか聞こえた猫の鳴き声に、三人が反応する。私は一早く鳴き声の元を探す。
「いた!」
こういうときの勘は子供が一番。私は象の滑り台の奥にある桜の木を指差す。テンとみっちゃんが寄って来て、高い位置からこちらを見下ろしている白い子猫を認識した。子猫がまた鳴いた。もしかして。
「おりられなく、なっちゃったのかな」
みっちゃんは心配そうに木を見上げるのに対し、テンは興味なさそうに象の鼻の先に座ってしまった。むっときてテンに近づくと、小声で「猫かまってる場合か」と呟かれた。気配は強いのにとむくれるテンへ口を開く前に、「偽善者気取りか?」と続けられた。
「……」
思いがけない言葉に驚いて私は立ち尽くす。
「生き返らせるって意味じゃ、天使は誰も救わない。天国へ導くのが仕事だ、例え世界中に名を馳せた善人だろうと、その時がくれば仕事は遂行する」
子猫を見上げているみっちゃんを背に、若い天使は死をすぐ近くに控える人間へ、小声ながらはっきり言い放った。そしてそれ以上何も言わなくなった勝手なテンに私は唇を噛んで、みっちゃんに歩み寄る。
「テン君、助けてくれないって?」
「……うん」
そうだ、私は死ぬ運命だ。死ぬためにここにいる。ここに来た。でも。
高い枝にしがみつく子猫がまた鳴く。やっぱり降りられないらしい子猫がすごく可哀想に見えた。私は象の尻尾へ走り、階段に足をかけた。
「だ、だめよ、さやちゃん!」
「わたし、たすける!」
「誰か大人を呼んでこよう?」
「まてない!」
善行でもして生き返らせてもらおうだなんて思いもしてなかった。ただ、助けられるものなら助けてあげたかっただけなのに。
私はトントンと階段を昇っていく。
幼稚園児が助けられるかはわからない。でも考えなしといわれようが偽善者といわれようが、死ぬまで私らしく生きたいと思った。バカは死んでも直らないらしい。
「待って、さやちゃん!」
もしかすると届くかもしれない、子供心がそう急かす。
子猫はちょうど象の耳の先の枝にいる。滑り台の頂上に達した私は、本来登るべきではない耳によじ登る。
高い視界。首をうんと上げると枝に子猫が見えた。
「……おいで」
右手を伸ばす。大丈夫、捕まえられる。
猫の首が伸び、匂いをかいだ。前足が伸びたその瞬間、ぐらりとそのバランスが崩れた。
「あっ!」
もっとこの腕が伸びれば。もっと。もっと。
もっと。
ふさ、と柔らかい毛が指に触れた。
「――っ!」
悲鳴にならない悲鳴が聞こえた。すごい勢いで逆さまに滑る私の園服が捲くれ、強く抱き締めている動物が容赦なく爪を立てた。
「……キャッチ」
思った程の衝撃なく、私は止まった。恐る恐る目を開けると、帽子のつばで影になった空色の双眸が、逆さまに私を見下ろしていた。
わかんねぇな、と呟かれる。
「せいぜい八十年の寿命なのに、……もう死ぬのに、何をそう息巻くんだ?」
首を傾げる若い天使の腕から降りる。
「……」
若さでわからないのなら教えたかった。理屈だけで動かないのが人間なのだと。
「さやちゃん!」
足をかけていた階段を下り、みっちゃんが大慌てで地上を走って来た。無事の証に笑いかけても、みっちゃんは眉を下げたままだ。
「もう、もうあんな無茶しちゃ嫌よ」
うんと頷くと、ぐぐ、と抵抗感があった。
腕の力を緩めると、子猫が地面へと降り立つ。
ぺろぺろと毛繕いを始めた子猫にほっと肩が下り、そうだとポケットに右手を突っ込む。死に際に持って来てしまった、みっちゃんの婚約指輪。ちゃんとある。なくしてない。
「さやちゃん、腕!」
叫ばれて視線を左腕に向ける。ピッと一筋、赤い線が走っていた。猫の爪によるものだとは一目瞭然だった。大丈夫すぐ治るよと笑い、ふと気付く。そうだ私、前にも子猫を……。
「あなたは!」
突然叫んだテンに私とみっちゃん、二人が驚く。膝をついたテンの帽子が落ちて、金髪が日に透けた。
「――様っ!」
白い子猫が毛繕いをやめ、こちらを見る。その視線の先には、赤筋の隣に鎮座する黒点。
にゃあと鳴き声が聞こえた途端、私の世界は白い光で覆われ、そのままブラックアウトした。