夜の木
以前のように大きなものが寄り添ってくれている感覚が体に蘇ったからです。
瑠璃色の瞳の男の人は、僕が水面に足を下ろして静かに歩き出すと、草原を僕に付き添って歩いていってくれました。
森に着くまでの間、僕は彼といろんな話をしました。僕のこと、彼のこと。話すとどんどん気持ちが楽になってきます。彼は、僕のどんな小さなことでも聞き漏らさずに聴いてくれたし、僕は、彼のいろんなことが知りたかったのです。そのうち、彼の名前をなんとなく悟った僕は、その人のことを「大きな人」と呼ぶことにしました。
大きな人は、こうも言いました。
この草原を人間が歩くことができないというのは、人間自身の「悪業」という、いやな考え方や、いけないことをした報いが固まってできたからだ、と、彼は言いました。この草原の草は、その嫌な部分の影響を受けて、刺のように硬く、鋭く育ってしまったのです。
そして、その硬い草の草原に、あの森に住む月の女神様は閉じ込められてしまっているのだと。そして、夜空から月が消えてしまったある日、この草原が一気に夜空を多い、数多の星を人間の目から隠してしまったのです。
僕は、そんな話を聞いて、かなしくなりました。
きれいなもの、美しいものを求めるあまり、人は人を傷つけます。
豊かな土地、安らぎの日々を求めるあまり、人は人と殺しあいます。
そう、彼は言いました。
それを「業」というならば、人は、自分たちの手で、自分たちが一番大切にしているものを消してしまっているのだから、とも。僕にはよく分からなかったけれど、よくないことなのだということは分かりました。
森に着いたのは、そんな話もたけなわの時でした。
森の中につくと、水の道はくねくねと急に曲がり、滝のできているところや岩場などを通っていかなくてはならなくなりました。僕は足元に気を使いながらも、それでも滑ってしまったり転んでしまったりしたので、常に助けられながら歩いていました。黒い影になった木や草が入り組んでいて、自分が今どこにいるのかも分からない。確かにここは普通の森ではない、と、思いました。
大きな人は、しばらく森を歩くと、そこで僕と別れました。あと三歩、歩けば、森の中の開けた場所に出る。そこに月の女神様がいると言って、彼は去っていきました。
さよならの挨拶をして彼と別れ、僕は勇気を持って、ひとりでその先に進みました。
すると、本当にそこで森は開け、いく筋かの水の流れに満ちた柔らかい下草に包まれた広場が見えました。その中心には水の湧き出る泉があり、それを守るかのように大きな木が立っていました。
そして、そこには確かに月の女神様がいました。
大樹に寄り添いながら、美しい金の髪の女神様は、眠っていました。体からは淡く弱弱しい光がにじみ出ていて、とても美しいのに、悲しそうでした。