夜の木
「さあ、もういい。目を開けてごらん」
さっきの声が耳元でささやきました。
僕は、足が地面のようなところにあるのに気が付きました。あまりに柔らかいから地面とは思えなかったけれど、その上に自分の足がついているような感覚がしたのです。だから、早く目の前に広がる世界を見てみたいと思い、そっと目を開けました。
でも、そこにはきれいなものも楽しいものも、なにもありませんでした。
あったのは、僕の目の前に広がる真っ黒な草原と、その先にある暗闇の塊でした。
「あれは森。そして今、君が立っている場所、それは、水の上」
振り向いても、どこを探してもその声の主は分かりません。ここではないどこかで、遠くから声を飛ばして僕にささやきかけているのでしょう。
ぼくは、その男性の声に言われるとおり、足元を見ました。
そして、驚きのあまり言葉を失ってしまいました。
僕の足は水面の上にあって、流れる水が河となって森のほうから流れてきていました。水は穏やかでどこまでも透明でした。本当ならば月や星を映してきらきら光っているはずの透明な水面。その下には小さな魚が泳いでいました。
「その川の源流は森の中。その森の中の源流には大きな木が立っている。その木のところまで、水の上を歩いていくといい。そこに月の女神がいる。それと、水の上は走らないで。水が乱れて溺れてしまうから」
声は、そういいながら風のようにサアッと消えていきました。
いままで僕に常に寄り添っていてくれた大きなものの感覚が、声と一緒に遠くへ行ってしまいました。僕は、急に寂しくなって、思わず早足で水の上を歩いていました。一歩、一歩と進むのですが、どんなに焦って歩いても森は近づいてきません。僕は、いよいよ寂しさに耐えられなくなって、ついに水の上を走ってしまいました。
すると、走り出して勢いよく水の中に突っ込んだ足が、水の中に沈んでしまい、僕の体はどんどん飲み込まれてしまいます。思ったよりも川は深く、あっという間に僕の体は水の中に沈んでしまいました。息ができなくなって、苦しくなって、水の中でもがきました。
すると、水の上から、僕より大きい腕が出てきて、バタバタと苦しむ僕の体を一気に引き上げて地上に下ろしてくれました。
「人間は、この草原を歩けない。だから水の上を歩くしかないんだ」
助けてくれた人は、そう言いました。
水をたくさん飲んでしまった僕を助けながら、彼は僕を立たせて、今は静かになった水面へと担いでいってくれました。
深い瑠璃色の澄んだ瞳を持った、真っ黒な髪の毛の男の人でした。男の人に見えたけど、この草原を人間が歩けないのに、堂々と歩いている彼は、人間ではないのかしら、と、僕は不思議に思いました。
彼に担いでもらい、水面までつく時間、僕の心から次第に寂しさは消えていきました。