深海の熱帯魚
12 太田塁
「じゃ、片付け頼むなー」
俺は単調な声色でそう言うと、車に乗り込み、ドアを閉めた。車の外で智樹が不満げな口振りで何かを叫んでいる。後部座席は矢部君と俺だけだ。
「まずは......拓美ちゃんの家だな」
嬉しそうに至が道を聞いている。好きな女の自宅が分かるなんて、そりゃ嬉しいだろう。しかも彼女は一人暮らしだ。
俺は広くなった後部座席で寛いでいるが、矢部君は窓際にくっついたまま、俺との距離を広くとっている。
「ねぇ、何？嫌がらせ？」
俺は咄嗟に口をついて出てきた言葉を並べた。
「へ？何が？」
怯えた様な目でこちらを見ている。どう見ても俺を、避けているだろう。
「俺、別に矢部君の事、とって食ったりしないし、身体が触れたぐらいであんな風に反応されたら、俺のガラス細工のハートが傷付くんだけど」
そう言うと、やっとこさ笑ってくれた。はぁ、何て手の掛かる女だ。
車は発進し、前の座席の二人は講義のシラバスについての話で盛り上がっている。
「別に塁の事が嫌いなんじゃないんだ。男の人全般が苦手で」
彼女はうつむき加減で笑顔とも泣き顔とも取れない微妙な顔をしている。俺は行きの車中で垣間見た彼女のあの瞳を思い浮かべ、口を開いた。
「男を意識すると、矢部君の瞳って様子が変わるんだよ。色、なのか何なのか。自分じゃわかんないでしょ。俺、それが描きたくて。ゴメンな、乱暴にして」
俺は素直に謝った。行きの車中といい、俺にしては珍しい事だ。珍事だ。
彼女は「いいのいいの」と目の前で手をブンブン振っている。
「智樹君とも話してたんだ。このサークルでリハビリになるかもって。だから普通に接して。私が可笑しな反応をしたら、変な奴だなって、思ってくれてイイから」
相変わらず目は合わせないが、通常の黒い瞳に戻っている。酷く警戒した時だけなのか、あの瞳を見る事ができるのは。
綺麗なアパートの前で赤い傘をさして拓美ちゃんは帰って行った。彼女の後姿は後姿なのに華がある。次は矢部君の家だった。
「そこ左に曲がって」
大学からは三駅程度離れていた。俺の家に割と近い事に気付く。路地を入って行った先にあったのは、一般的な戸建住居だった。
「ありがとう、助かったよ」
そう至に言って、後部座席の俺には「ゴメンね」と言った。謝るのは俺の方なのに。
矢部君が車を降りると車はすぐに発進した。俺達が見えなくなるまで傘の下で手を振っていた。拓美ちゃんとは比較にならないぐらい、地味だなぁと改めて思う。
「塁、お前さぁ、君枝ちゃんに惚れてんのか？」
突然の至の言葉に、おかしな声が喉から漏れた。惚れてる？そんなんじゃ無い筈だ。もっとうまい言葉が......。暫く考えた末に出てきた言葉がこれだった。
「気になる存在、かなぁ」
それが一番しっくりくる言葉だった。他に見当たらない。
「俺が見る限り、智樹も彼女に気がありそうだよな」
俺もそう思った。鉄板焼きの最中に、やたらと彼女の隣に座って話をしていた。あのイケメンに勝てる気がしないし、俺はまだ「気になる」だけなのだ。
でも、あのイケメンには理恵ちゃんという強力な女がついている筈だ。まさかあの理恵ちゃんが、智樹を手離すとは思えない。逆はあるかもしれないが......。
「でも矢部君は男性が苦手なんだとさ」
俺は運転席に身を乗り出す様にして言うと、ちらとこちらを見遣りながら至が「そうみたいだな」と口にした。
「よくこんなサークルに入ったよなぁ」
「リハビリ」
それだけ言うと、ややあって叔母が住む自宅に辿り着いた。
「後は俺がやっておくから」
「何時も済まないね、至さん」
おれは至の四角い肩にポンと手を置いた。至は運転席で腰に手を当てて「いいって事よ」とドヤ顔をして、車で去って行った。