深海の熱帯魚
11 矢部君枝
塁に手を掴まれた時に、閃光の様な物が頭の中を駆け巡った。一瞬にして過去に、引き戻される。
捲り上げられたセーラー服。下着は剥ぎ取られている。傍には開封された四角いビニールのパックがだらしなく口を開け、中身だったはずのゴム製の細い物はダラリとした液体を湛えてパックの横に転がっている。これで三度目だ。
ブラジャーは首に巻きつくように位置を変えている。私はそのまま身体を動かす事が出来ず、横になったまま木目の天井を見つめていた。出入り口が、ヒリヒリする。あいつの唾液の匂いが、何処からともなく臭い、吐き気を催す。
隣のダイニングで、あいつと母が言い争う声が聞こえる。あいつは母に何か叫んだが、私の耳には言葉として届かなかった。あいつは家を出て行った。それきりあいつの顔は見ていない。
母は私の傍に走って来て、私を抱いて泣いた。早く気づいてやれなくてごめん、と。私は涙も出なかった。近親相姦なんて、私とは次元の違う話だと思っていたから、された事に戸惑い、泣いている母に戸惑い、再び片親になる事に戸惑った。
それからだ。男の人に触られる事を嫌悪するようになったのは。私の母の再婚相手は、自分で言うのもおかしいが、歳の割に若く、男前だった。だから今でも、特に男前は苦手だ。相手に悪気がなくても、ダメなのだ。
それでも自分を変えたくて、このままじゃダメだと思って、男性が多いこのサークルに足を踏み入れた訳だ。
勿論、近親相姦の事は他の誰にも言うつもりは無い。活動の中で、男性に対する偏見が薄れて行く事を望んでいる。
「男の人、苦手なの?」
少し掠れた、低い声で智樹君が隣に座った。彼の男前な顔にも少しは慣れてきたが、膝一つ分離れてみる。優しさを醸し出す雰囲気に、少し和む。
「あ、うん、そんなところ」
私は手にしていたウインナーを一口かじり「可笑しいでしょ」と目を合わせずに自嘲気味に笑う。
「男が嫌いなのに、男のヒトに勧誘されてサークルに入って、可笑しいよね」
私は下を向いて苦笑しながら首を傾げていると「そんな事ないよ」と、強い調子で智樹君が言う。私は彼を見たが、彼はあまり視線を合わせようとしない。
「リハビリのつもりなんでしょ。俺達は女の子に酷い事をするためにサークルを立ち上げた訳じゃない。単純に思い出作りなんだ。だから少しずつ、男の子に触れて、卒業する時は皆で肩、組める様に、ね。なれるとイイよね」
智樹君は優しい調子でそう言うと「あげるよ」と、やっと私の顔に視線を送り、笑顔を見せ、牛ハラミを一枚くれた。これもリハビリの一環なのかな。
暖かい言葉に、理解者に、ホッとした。智樹君が男前じゃなかったら、何でも喋る事が出来たかもしれない。貰った牛ハラミをタレにつけて、一口で食べた。もう冷え冷えだったけど、美味しい。