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天つみ空に・其の八~恋月夜~【最終章】

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 お逸が泣きながら去った後、真吉はやり場のない感情を抱え、惚けたようにその場に立ち尽くしていた。
 静かな怒りがふつふと身体の奥底から湧いてくる。静謐な瞳に、蒼白い怒りの焔が燃え上がった。
―惚れた女であれば、奪うよりは守る強さを男は持つものだ。
 そんな簡単なことが何故、あの男には判らない。あの冷酷で人を人とも思わぬ男が真吉の大切な女を傷つけた。しかも、これ以上はないというほど容赦ない残酷さで。
―許さねえ。
 真吉は今、これまでの二十四年間の生涯の中で初めて他人をとことん憎んだ。
「可哀想に。さぞ怖かったろうに」
 真吉の眼に熱いものが溢れる。
 知っていれば、昨夜、甚佐の伴で外出することさえなければ、真吉は必ずお逸を助け出しただろう。他の若い衆とやり合って、たとえ誰を傷つけ、自らの生命をなげうったとしても、お逸だけは助け、逃がしてやったことだろう。
 まだ男と女のこともろくに知らぬ身で、好色な清五郎の餌食になってしまったお逸。そのときのお逸の恐怖を想像しただけで、真吉は清五郎を殺してやりたいほどの憎悪に駆られる。
 真吉はお逸に何もしてやれず、惚れた女一人を守ることができなかった己れの不甲斐なさが口惜しかった。その場にうずくまり、拳で廊下を叩く。声を殺して男泣きにむせび泣きながら、真吉はいつまでも廊下を力任せに叩き続けた。

     《其の参》

 くっくっと、暗鬱な嗤い声がした。
 その声は次第に高くなってゆく。
 次の夜も、やはり、あの男は来た。
―身体の具合はどうだ?
 口では労るような科白を言いながらも、その瞳にはひとかけらの優しさも思いやりも含まれていない。ただ氷を含んだような凍てついた眼(まなこ)で無表情にお逸を見下ろしているだけだった。
 部屋の中には、何かは判らぬが、怪しげな香のかおりが充満している。それは清五郎が持参してきたもので、おしがに命じて焚かせたものだ。更に、清五郎は懐から小さな紙包みを取り出し開くと、用意されていた銚子にさっと注ぎ入れた。その包みはちょっと見には薬包のように見え、中身もさらさらとした白い粉薬のようであった。
 娼妓の部屋には大抵、客のために酒肴の支度が整えてある。清五郎はお逸に盃を持たせると、その粉薬を入れた酒を並々と注いだ。
 お逸は酒など、普段から滅多に口にしたこことはない。しかし、それを口にした途端、清五郎の機嫌の良い顔がさっと険しいものになったので、すぐに言葉を引っ込めた。
 それを良いことに、清五郎はお逸に何度も盃を干させた。最初は苦くて少しも美味しいと思えなかった酒の味だった。お逸がむせて涙眼になるまで咳き込み続けるのを、清五郎は面白そうに眺めていた。
―どれ、少し背中をさすってやろう。
 嫌らしげな笑いを浮かべて、お逸の背に手を回してくる。男の指先がほんの少し触れただけで、お逸の背に鳥肌が立った。
 それでも、お逸は込み上げてくる不快感に懸命に耐えた。
 最初はまずいばかりで少しも美味しいと思えなかったにも拘わらず、しまいには、お逸自身、酒の味が判らなくなっていた。つまり、それほど酔いが回っていたということだ。ただ熱い雫が喉元をすべり落ちるだけで、その熱は喉許から胃の腑を通り、更に身体全体へと拡散されてゆくようだ。
 白い喉をのけぞらせて盃を重ねるお逸を、清五郎はいつになく上機嫌で見つめた。盃が空になると、すかさず並々と酒を注いでやる。
 かれこれ一刻余りは、そんなことを繰り返した時、突如として、お逸の手からポトリと盃が落ちた。まだわずかに残った雫が零れ、畳に染みとなり、ひろがってゆく。
 お逸の華奢な身体がゆっくりと傾ぐ。倒れ伏したお逸は、待っていたかのような清五郎抱えられ、褥に運ばれた。
「昨夜は少々痛みを与えてしまったゆえ、今宵は快楽だけを感じさせてやろう」
 お逸の耳許を熱い吐息混じりの声がかすめる。
 お逸は意識を失ったわけではなかった。どうしたものか、面妖なことに、身体の自由は一切奪われているというのに、意識だけはちゃんと保っている。頭の芯は冴えていて、自分がどのように扱われているかは十分認識できていた。
「どうだ、身体が疼いてたまらないのではないか?」
 清五郎がお逸の顔を覗き込む。
 褥に横たえられたお逸は、力なく視線だけを動かし、清五郎を見つめた。
 身体が熱い。熱くて、熱くて、たまらない。
 熱を帯びているのは下腹部だけではない、身体全体が高熱を発しているかのように燃えていた。
「一体、何を―?」
 お逸は掠れた声で訊ねた。
「暴れる獲物を手なずけるのもまた一興だが、毎夜ともなると、流石に私も手を焼くのでね。悪いが、薬を使わせて貰った」
 清五郎が抑揚のない声で言う。
「まさか―?」
 お逸の唇が小刻みに戦慄く。
 恐怖と絶望が同時に奥底からせり上がってきた。
「そう、そのまさかだ。暴れる獲物を大人しくさせるには媚薬がいちばんだ。ああ、心配することはない。手脚の動きはままならなくなるが、感覚だけはちゃんと残っているし、むしろ、常よりは鋭敏になっているだろう。何なら、これから早速、試してみるとしよう」
 清五郎の手が伸びてくる。
「―!!」
 お逸は絶望的な呻きを上げた。

 それから更に一刻が経過した。
 しんと静まり返った閨の中に、クックッと清五郎の嗤い声が不気味に響く渡る。
 その声は次第に高くなってゆく。
 清五郎の醒めきった瞳が無表情にお逸を眺め降ろしている。
「さて、お前の強情もいつまでもつかな?
媚薬を使って、もう一刻は経つ。お前の身体はどこもかしこも疼いて、しようがないだろうに。よくもまあ、そこまで意地を張り通せるものだ。大概の女なら、もう、とっくに意地などかなぐり捨て、抱いてくれとせがんでいるだろうに」
 お逸は唇を切れそうなほどきつく噛みしめ、夜具の端を握りしめていた。
「あ、ああっ」
 それでも、声から溢れ洩れる声を止めることができない。身体―殊に下腹部が異様なほどの熱を持っている。確かに清五郎の言うように〝疼いている〟という形容が相応しいだろう。
 だが、そんな科白はたとえ死んだって、口にするつもりはなかったし、できるものではない。ましてや、この卑劣な男に抱いて欲しいなぞと縋るつもりも、泣き言を言うつもりも毛頭なかった。
「うっ、ああ―」
 褥にうつ伏せになったお逸は、まるで瘧にかかったかのように身体を痙攣させている。
 緋襦袢の前は捲れ上がり、太股まで露わになっている。解き流した黒髪が乱れ、頬にかかっていて、額にはうっすらと汗が滲んでいた。お逸の身体は紛うことなく、〝男〟を欲している。あれだけの量の媚薬を呑まされ、更に閨では媚薬を含んだ香を焚いているのだ。お逸の中の官能は嫌が上にも高められているはずだった。
 お逸がその絶え間なく押し寄せる官能の波と闘っていることは傍目にもすぐに判った。
 それなのに、この強情な娘は少しもしおらしくなるどころか、歯を食いしばり、拳を握りしめて耐えようとしている。全く、小娘ながら、それだけは見上げた根性というか自制心だと清五郎は醒めた想いでお逸を見ていた。
 清五郎の瞳からは、そんな感情は全く読み取れない。
「何という強情者だ。呆れた奴だ」