金木犀の薫り
出合い
金木犀の小さな枝を折ると、胸のポケットに差しこんだ。偶然とはいえ彼女に逢った事が嬉しかった。
明日は10月かと思った。少し寒さを感じた。僕は宿の方に帰り始めた。大きなゴールデンレトリバーを連れた若い女に出合った。僕も同じ犬種を飼ったことがあり、10年ほどで死別した。まるで僕の犬の様に似ていた。
「触らせていただけますか」
「どうぞ」
ゴールデンは利口な犬だ。でも、僕は頭は触らずに顎を撫でてやった。穏やかな目つきで僕を見てくれた。
「いい子だね」
その時脇をハスキー犬が通りながら吠えはじめた。女はリードを体に引き寄せたが40キロほどある犬の力に耐えられず引きずられた。
僕は犬の首を抑えた。
「ありがとう」
女はそう言いながら僕の体に付いた犬の毛を手で払いのけてくれた。
「臭いが付いてしまいましたね。ごめんなさい」
「以前飼っていましたから気になりません」
「金木犀の枝も落ちてしまいましたわ」
「戻って一枝折って来ますから」
「よろしかったら私の家に来ていただけませんか。臭い消しのスプレーもありますし、金木犀も咲いていますから」
「そうですか、リードを持たせていただけますか」
「どうぞ」
僕は死別した悲しみから二度と犬は飼うまいと思っていた。
女の家は5分ほどで着いた。
一戸建ての白い小さな家ではあるが庭もある。芝の手入れも綺麗にされていた。所々に犬の毛が付いていた。
「シャツ脱いで頂けますか」
「スプレーでしたらこのままでどうぞ、いや自分でかけますよ」
「代わりにこれを着て頂けますか」
女は同じようなオープンシャツを持っていた。
「こちらにコーヒーを淹れました」
その言葉は少し命令調に聞こえた。
ガラス越しに、テーブルに載ったコーヒーの湯気が立ち上っているのが見えた。
「朝からお邪魔でしょうから」
「私一人ですから」
「でしたら余計に・・・」
「いいんですよ」
僕はコーヒーを飲むことにした。シャツを脱ぎ、代わりのに着替えた。
少し冷えた身体にあたたかなコーヒーは旨い。
「美味しいです」
女はアイロンをかけていた。
僕はその様子を見ながら家庭とはこんな感じなのだろうと思った。
ゴールデンがコーヒーを飲んでいる僕の足元に座りこんだ。
僕は椅子から降りてしゃがみこんで犬の体を撫でた。気持ちよさそうに横になった。
僕は腹の方に手を当てた。
「これから何か予定がありますか?」
「別に何も」
「良かった。ゴンと2時間くらい遊んでいただけますか」
「いいですが・・・」
「美容院に行きたかったの、良かった」
女はまるで友達のように僕に話しかけてくる。
「お願いします。これ携帯の番号」
いくら僕が信用されているとはいえ余りにも不用心だと思う。
女が車に乗るとゴンは吠えた。
僕は直ぐに僕の唾液をつけたおやつを与えた。軟式野球のボールがあったのでそれで遊ばせてみた。投げたボールは持ち帰ってくる。
女の家は長屋の様に隣と接近していた。カーテンがなければ部屋は丸見えだろう。
僕が庭で犬と遊んでいると、三人もの人が会釈をした。
僕はこの家の住人に間違えられている事が何か心地よいと感じて来た。
何故か自分でも解らない。
女が帰るまでにはまだ1時間もある。
僕は冷蔵庫を開けた。僕は腹が減っていたし、何かを作って女の帰りを待っていたかったのである。その前に宿に電話を入れなくてはと思いついた。
サツマイモにイカを見つけた。朝からてんぷら。駄目か。
若い子は何が好きなんだ。
レタスがあるからサラダでも作っておこう。
ゴンが僕を嗅ぎまわっている。やはり怪しいかな。
テーブルの上をかたずけようとして手紙を見つけた。宛名は中村マリアと書いてあった。
ハムと卵を見つけサラダは出来た。
女マリアの車が帰って来た。
車から降りた姿を見て朝とはまるで別人に見えた。
「ゴンおとなしかったかな」
「手間のかからない犬だね。暇だからサラダ作って見た」
「料理できるの」
「独身だから」
「その年で嘘でショ」
「ほんとさ」
「じゃ私が救ってあげる」
女は簡単に言った。
僕はその意味を考えた。結婚してくれるという意味なのか?
それはないだろう。まだ逢ったばかりだ。
「パンのあるのを知っていて・・・」
女はサラダの事を言ったのだろう。
そして、手早くハムエッグを作った。
「私も料理は好きなの」
女はテーブルにそれらを載せた。
「食べましょ」
僕は素直に食べたくなった。
親子として一緒に生活してもいいなと思い始めた。
「さっき救ってくれるって・・・」
「結婚よ」
「43歳だよ」
「23だから、いいんじゃない」
「家族は?」
「北海道よ」
「聞いていいかな、いまは何の仕事」
「グラビアアイドルだけれど、生活費は援助交際ね」
悪びれず答えた。
「サラダ美味いよ。パンはどう?」
「サイコー」
「じゃ毎日作ります」
もう夫婦の様な会話になっていた。