アルカス
達郎の返答に、友人が目を大きく開いて頓狂な声をあげる。それがおもしろくて、思わず達郎は吹き出してしまった。
「まあ、それが普通の反応だよな。まったく、いくらなんでもムチャクチャ言いすぎだよ」
「いや、それよりもさ……」友人はまだ不思議そうにしながら続けた。「達郎って彼女いないのか?」
「え、いないよ。いるわけないだろ。まさか、お前はいるってんじゃないだろうな」
真面目に練習へ参加し、陸上へ打ち込んでいるこの友人に彼女なんているわけがない。友人からの「いない」という返事を待ちながら、達郎は歩くスピードを少しだけ緩める。なかなか友人からの返答がない。ついに達郎は立ち止った。
隣で同じように立ち止った友人が、バツの悪そうな顔を浮かべる。それで全てを悟ったが、信じることはできなかった。
「中学のときから付き合っている相手がいる。一応、月に二回ほどは会ってる」
「え、いや、だって、陸上は……」
自分でも声が上ずるのが分かった。何故かどんどん焦りが出てくる。友人は対照的に段々と冷静になっていくようだった。
「陸上に支障なんてあるわけないだろ。ていうか、お前は本当に彼女いないのか?」
「悪いかよ」
二度目の問いに、達郎は気分を悪くする。何故か目の前にいる友人がとても大人に感じられ、恋人のことを一々大きく考えている自分が子供っぽく感じられた。
「悪いというか、達郎には彼女がいるものだと思い込んでた。そういう話したことないけど、勝手にそう思ってたんだよ」
「どうして」
「達郎、結構モテるし」
確かに、おそらく自分はモテていないことはないだろうと思っていた。あからさまに好意を向けてくれている相手もいたし、バレンタインデーでもチョコレートを多く受け取った。
それでも今までそれを気にしたことがなかったのだ。自分には陸上さえあればいいという思いと、さらにもう一つ彼を恋愛の道に進ませないある理由のためだ。
「とにかく、彼女なんて俺には必要ない。特に今はただでさえ走りに専念したいときなんだから」
「そうは言うけどさ、達郎が気付かないところに気が付いてくれるかもしれないだろ……」
友人の声を聞きながしながら、達郎は再び歩き始めた。友人はしばらく達郎を説得しようとしていたが、やがて諦めたのか何も言わなくなった。
家に帰った達郎は、食事と風呂を除いて何もする気が起らず、普段よりも数時間早く布団に入った。それでも疲れていたのか、ほとんど時間をかけることなく彼の意識は沈んでいった。
翌朝、目が覚めた達郎が折りたたみ式の携帯電話を開くと、新着メールが二件届いていた。
眠りの世界から連れ戻されたばかりであるので、どうも頭がよく働かない。それでも布団の上でゴロゴロしながら確認すると、一件は昨日一緒に帰った友人からだった。達郎の様子を案じてくれていたらしい。遅くなったが、感謝の意を示すメールを返しておいた。一晩明けて、昨日とった自分の対応が良くなかったことが分かるくらいには冷静になっていた。
もう一件のメールはアドレス帳に登録されていない相手からだった。メールアドレスはarukas. track-and-field@……というものであり、それに見覚えはなかった。
「今日からよろしくお願いします……って、誰だ?」
メールアドレスから推測するに、相手も陸上に携わっているようだ。他に何か手がかりになりそうな言葉は「アルカス」という単語だけだった。だが、達郎はその言葉を聞いたことがない。
メールアドレスとにらめっこして「アルカス」という言葉を考える。しかし、頭が上手く回らない今はどれだけ考えても思い浮かびそうになかった。
結局彼は考えを放棄して、部活へ向かう準備を始めた。誰が送ってきたのか分からないメールは少し怖かったが、これ以上は時間に余裕を持たせられない。
学校に着くと、またも監督からはとりあえず走るよう指示を受けた。今日もダメなら明日からはメニューを変えると言われたが、それが新たな調整メニューなのか、それとも達郎への特別扱いをやめるということなのかわからなかった。後者であるなら、今日結果を残さなければおしまいだ。今までに部を去って行った同級生たちの顔が脳裏に浮かぶ。実力がない選手はここでは生き残っていけない。そして、今の達郎にはその実力がない。
ウォーミングアップを終えると、いつもと同じようにストップウォッチを持ったマネージャーがゴール地点へ走っていった。しかしその顔には見覚えがなかった。名前は覚えることができないでいたが、顔くらいは覚えていたつもりだった。
達郎が不思議そうにしていると、監督が答えを教えてくれた。どうやら今日からは、昨日簡単な説明を受けていた新一年生のマネージャーが練習に参加するらしいのだ。おそらくゴール地点へ向かったマネージャーも新一年生なのだろう。マネージャーであることを示す真っ赤なジャージを着ているが、その動きは先輩らのそれと比べるとやはりぎこちない。
「どうした、鈴木。いきなり惚れたか」
「違いますよ」
「昨日も言ったが、お前には女っ気がなさすぎる。陸上に打ち込むことも大事だが、鈴木は少しくらい女遊びでもした方が気を紛らわすことができていいんじゃないか? ほら、あの新入生なんて可愛らしいじゃないか」
もしかしたら、監督は半分本気で言っているのかもしれない。二日連続の会話に、達郎はそう思わざるを得なかった。
ましてや友人からも恋人はいた方がいいと言われている今、意識するなという方が無理だ。
彼は苦笑いしながら、こちらへやってくるマネージャーに視線を送った。これから迷惑をかけるのだから、せめて初めにしっかりと顔を覚えておきたいと思ったのだ。しかし、その姿を見た達郎は思わず懐かしい名前を口に出していた。
「桜……?」
校庭に咲き誇っている桜の木のことではない。目の前で微笑んでいる女子の名前だ。
「久しぶりだね。タツローくん」
四年ぶりに会ったその姿は多少変わっていたものの、短い髪や大きな目、そして達郎のことを唯一「タツローくん」と呼ぶことなど、少なくとも一瞬で達郎に当時の記憶を思い出させた。
桜と出会ったのは小学校四年生のときだった。小学校の陸上部に所属していた達郎は、そこで一つ年下の彼女と知り合ったのだ。当時四年生ながら――入部が可能になる三年生から既にそうだったが――部で一番速かった達郎は、下級生からも有名だったらしい。先に話しかけてきたの桜のほうだった。
「学校で一番速いの?」
「まあね」
達郎の返事に桜は少し驚いた様子を見せた。彼が不思議そうに尋ねると、まさか即答で肯定されるとは思っていなかったらしい。だが彼は部員で一番速いことを自覚していたこともあり、自分は速くないと謙遜することが嫌いだったのだ。
「タツローくんは、走ることが好き?」
「タツローくん……?」
「あれ、違った?」
「いや、違わないけど……」
「だって鈴木って人は多いし、タツローのほうが呼びやすいから」