アルカス
頬を流れた汗が地面に落ち、トラックにシミを作る。それをぼんやりと眺めながら、今までにないほど興奮していた。スターティングブロックに触れている両足が震える。地面に置いている両手が震える。また汗が地面に落ちた。しかし、暑いはずなのに寒気がする。「用意」という合図で腰を上げたが、四肢の震えは増すばかりだ。号砲はまだだろうか。そろそろだろう。一瞬そう思ってしまったためか、体が前に動き出す。それからワンテンポ遅れて号砲が鳴り、続けてもう一発、競技場に号砲が響き渡った。
目が覚めたのはそのときだった。冬の寒さもおさまり、毛布がなくなった布団に包まれていた達郎の体からは、いたるところから汗が滲み出ていた。それが暑さだけによるものではないことは、彼自身が一番理解していた。気分の良い夢は良いところで終わるくせに、彼が過ごしてきた一六年あまりの人生において最悪の記憶は、どういうわけか最後まで見なければ起きられないようだ。彼がこの夢を見るのはもう数えきれないほどになっていた。
時計を見ると午前六時。昨夜は日付が変わるころには寝ていたために睡眠時間は十分だが、まだ起きなければいけない時間でもない。もう一度寝ようかと目を閉じるも、先ほどの夢を思い出してしまい眠れそうになかった。彼は仕方なく布団からはい出ると、まだ明かりのついていないリビングへと向かった。
リビングから台所へ向かい、冷蔵庫のポカリスエットを取り出して飲む。汗にまみれた体を内側から潤してゆく水が心地よい。外側もすっきりするためにシャワーを浴びようと彼が思い立つのに、時間はかからなかった。
シャワーを浴びた体からはすっかりと眠気がとれ、あと二十分は寝ている普段よりも気分は良かった。それは先ほどの夢を考慮しなければの話だが、もう何度となくそれを見てきた達郎は、気持ちを切り替える術も身につけていた。
やがて六時二十分となり、彼はいつも通り学校へ行く準備を行う。朝食を摂って着替えるというその作業が終わると、六時四十五分。彼は自転車にまたがり学校へ向かった。
達郎が通う高校は、彼の自宅から自転車で十分の場所にあった。春休みの間、陸上競技部は毎朝七時に集合して十五分後に練習が始まる。県内屈指の強豪である陸上競技部は学校からの期待も大きかったために練習量も多く、そのために途中で辞めていく選手も多かった。残っているのはほとんどが中学時代残した陸上の成績が良くて推薦入学を果たした者ばかりで、達郎もその一人だった。中学時代に百メートルを十秒台で走った記録を残し、鳴り物入りで入学・入部。高校でも即戦力として期待された彼はすぐに自己記録を更新すると、夏のインターハイに出場する機会を得た。
インターハイでの記録は全体で八位。つまり決勝まで残ったのだ。一年生としてはおそらく充分な成績だろう。彼としても当初の目標には達することができた。そして、この大会は彼の陸上人生を大きく変えることとなった。しかしそれは良い方向にではなく、悪い方向にであった。
学校に着き、陸上部のジャージに着替えるとすぐに校庭のトラックへと向かう。入学式は数日後だが、今日から新入生も全員が練習に参加することは前もって聞いていた。晴れて二年生となった達郎も先輩となったわけであり、多くの後輩から挨拶を受けた。嫌な気はしなかったのだがいまいち慣れず、途中で彼らから離れてウォーミングアップを行った。
「鈴木、アップはできたか」どこかで見ていたのかというほど絶妙なタイミングで体育教員室から現れた監督が達郎に声をかけた。「何度も言うようだが、今はとにかく走れ。いいな」
「はい」
監督が自分に期待してくれていることは自分でも分かっていた。しかしそれも時間の問題だろうと思う。彼が期待しているのは記録を残す鈴木達郎であって、記録を残さない選手はいらない存在だ。つまり昨年夏以前の達郎こそが監督の望む存在なのである。大会で記録を残せなくなってから半年以上が経った今、いつまで監督が自分に構ってくれるのか、それを考えるだけで達郎は苦しくなった。
赤いジャージに身を包んだマネージャーが号砲用のピストルを持ってトタトタとトラックへやってくる。達郎の百メートル先にはもう一人マネージャーがおり、彼女はストップウォッチを構えている。十人ほどいるマネージャーたちの名前すらうろ覚えの達郎だが、当然ながら感謝はしていた。
「鈴木は、彼女でもいた方がいいのかもしれないな」
達郎が女子マネージャーに視線を送っていたからか、急に監督が言った。
「どうしてですか」
「本来なら陸上の邪魔になるようなものだが、今のお前には陸上以外のことも大切なのかもしれん」
彼が本気で言っているのかは分からなかった。部内恋愛は禁止されている以上、少なくともマネージャーを対象とした話ではないはずだ。
「彼女なんて……」
監督に聞こえないように呟く。
グラウンドの隅で鮮やかなピンク色を主張している桜の木を見て脳裏に一人の女が浮かんだが、達郎はすぐにそれを打ち消した。今は走ることに集中したい。
何事もなかったかのように、ピストルを持つマネージャーの横で監督がビデオカメラを構える。スタート時のフォームを記録するためだ。監督が毎日それをチェックしてくれていることも知っている。その思いに報いるためには結果を残すほかない。クラウチングスタートの構えを作った彼は、一度息をつき、マネージャーの合図を待った。
「位置について、用意……」
いつもと変わらぬ現象。四肢が震え、息が荒くなる。しかしそれに気が付かないのか、マネージャーがピストルの引き金を引いた。
号砲を認識した体が前に出る。スタートが遅れたのは明らかだった。そういった余計なことを頭に浮かべながらトラックを走る。百メートル走った後にマネージャーから告げられたタイムは、とても満足できるものではなかった。
去年夏のインターハイ決勝で、達郎は人生初のフライングをしてしまった。もともと暑さと緊張で頭がクラクラしていた彼はそのことで精神的に深いショックを受けた。それ以来、彼はスタートをスムーズに行えていない。フライング直後の走りでは体が思うように動かず、自己ベストを大きく下回るタイムで最下位だった。それから今まで、記録は一向に良くなる気配を見せなかった。
結局その日も走り続けたが、一度もタイムを十秒台に乗せることなく達郎は帰路についた。
「あまりさ、気にしない方が良いって」帰り道、達郎と一番仲の良い友人が言った。「何度も言うようだけど、達郎の走り自体は力強いんだから、やっぱり精神的なものが影響しているんだと思う」
「それはそうなんだろうけどさ」
達郎が調子を崩して以来、この友人はずっと達郎の調子を気にしてくれている。彼自身はスランプに陥ったことがないようで、そのアドバイスは具体的ではないのだが、それでも彼と話をしていると気分が楽になる。彼がいなければ、陸上をやめていたかもしれないほどだ。
「監督は何て言ってるんだ」
「彼女でも作れってさ」
「は?」