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アルカス

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 そういって桜は笑った。思えば、最初から彼女は達郎のことを「タツローくん」と呼んでいた。一人っ子だった彼には妹のように懐いてくる桜の存在が新鮮に感じられ、桜もまた達郎を兄のように思って接してくれていた。彼女には実際に兄がいたのだが、ことあるごとに達郎と交換したいと言っていた。おそらく本心だったのではないかと思う。

 達郎が中学に入ると、二人の交流は途絶えた。当時携帯電話を持っていなかった彼らには連絡手段がなかったのだ。しかし彼女が中学に入学してくれればまた交流が再開すると思っていた。その認識が誤りだったと知ったのは、桜の友人から、彼女が中学入学と同時に他県へ引っ越したということを聞いてからだった。達郎に伝えるよう友人に頼んでいたことに感動しつつ、事前に何も言わず去ったことに苛立った。

 やがて彼は中学でも順調にタイムを上げ、陸上漬けの生活を送るにつれて桜のことは忘れていった。それでも心のどこかに彼女が残っていたのは、さすがの達郎でも認めざるを得なかった。

 彼が今まで誰かに好意を寄せられるたびに感じていた違和感の正体は、桜だったのだろう。


「桜……だよな」

「うん。タツローくんだよね」

「ああ」そこで言葉を止める。話したいことはたくさんあるのだが、それでもその中から一つだけを選んで続けた。「どうしてここに?」

「タツローくんがいたから、かな。せっかく先輩にアドレスを聞いてメールを送ったのに、タツローくん反応してくれないんだもん。ちょっと寂しかった」

「メール……? そんなの受け取ってないぞ」

「え、これからよろしくお願いしますって内容のメールを送ったんだけど……」


 そのとき、達郎はようやく朝の差出人が分からなかったメールを思い出した。あれは桜だったのか。


「あれ、桜が送ったのか」

「え、名前入れてなかった?」

「ああ。アドレスも登録してないから全く分からなかった。アルカスって何だよ」

「アルカス?」桜は少し不思議そうな顔をしたが、すぐに笑いながら首を振った。「違うよ。あれは桜をひっくり返した言葉。まさかアルカスって読まれるとはね」


 彼女の笑いには少しムカついたが、それよりも達郎は頭の中で「アルカス」を「桜」に変換することに集中していた。確かに「arukas」をひっくり返すと「sakura」となるが、そんなこと思い浮かぶはずがない。

 それでも彼女は笑うのをやめない。いつか見たのと変わらない笑顔。小学校のときから変わらないタメ口。懐かしさに目頭が熱くなったが、必死にそれを抑え、そして話題を変えた。


「もう桜は走らないのか」

「わたしはタツローくんほど速くないから。どうせなら、タツローくんのために頑張りたいって思ったの」

「俺も、今は速くないよ」


 謙遜ではない。本心から、彼は自分が速くないことを認めた。もし桜が過去の達郎を追って来てくれたのだとしたら、今の達郎はその期待に応えることができない。

 しかし桜はゆっくりと首を振り、口を開いた。


「タツローくんはそんなこと言わないよ」

「俺が言わないって、どうして桜がそんなこと決めるんだよ」


 そういってから彼は気づく。今彼女が口にした「タツローくん」というのは、彼女が知っている達郎――小学生の達郎だ。フライングをする前の、あの自信に満ちていた頃の達郎だ。


「タツローくんはそんなこと言わないよ」


 もう一度発せられた桜の言葉に、今度は達郎も頷いた。少しだけだが気分も晴れた気がする。


「鈴木、早く走れ」

「はい」


 空気を読まずに催促する監督に返事をすると、彼はスタート位置から桜に合図を求めた。


「位置について、よーい……」


 やや間延びした桜の声が、今までと違う現象を彼にもたらす。四肢の震えは相変わらずだが、明らかに弱くなっている。これならいけるかもしれない。あとは号砲を待つだけだ。

 しかし、なかなか号砲は聞こえない。もうそろそろくるんじゃないだろうかと思うも、まだ鳴らない。辛抱がきかなくなった体が前に出ようとする。

 その瞬間、号砲が鳴り響いた。

 完璧なタイミングで切られたスタート。低い姿勢からトップスピードに乗った。ゴールの先にある桜の木を見ながら足を進める。今まで気が付かなかったが、とても綺麗なピンク色なのだと思った。

 そのままあっという間に百メートルを走りきる。わざわざマネージャーから知らされなくても、おおよそのタイムは分かった。今までがむしゃらに走っていたのも無駄ではなかったらしく、ゴール地点にいたマネージャーから聞かされたタイムは十秒台半ばという自己ベストだった。スタート以外の面では確実に成長していたらしい。

 おそらく桜は、達郎のスタートに合わせて号砲を鳴らしたのだろう。フライングぎりぎりだが、おそらく二度目の号砲が鳴らされることのないタイミングだ。どうして彼女に達郎のスタートするタイミングが分かったのかは聞かなくても分かる。彼がスタートするときの癖を、監督が録ってくれていたビデオで見つけたに違いない。

 達郎と桜は恋人という関係ではないが、昨日友人が言っていたのはあながち間違いではなかったのかもしれない。達郎自身が気づかなかったことも、桜なら気づいてくれた。そして桜は、彼女が達郎にとってどれほど大きい存在だったのかを、気づかせてくれた。そういう人物が、この世には存在するのだ。

 視線の先には、満開の桜。これから入学式を迎える桜たちを歓迎するかのように咲いているその桜が散る前に復活できたことが、何よりも嬉しかった。

 先ほど我慢した思いが再燃し、目頭を熱くする。今度は止まりそうにない。


「タツローくん、次!」


 スタート地点から容赦のない指示が与えられ、達郎は思わず苦笑いを浮かべる。それを合図にしてか、堤防が一気に崩壊した。


「ほんと、こういうタイミングは悪いんだよな」


 頬を流れた涙が地面に落ち、トラックにシミを作った。
作品名:アルカス 作家名:スチール