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仙境綴り(せんきょうつづり)3~砂漠の鷹~

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 翠華はその台詞を唇にのせてしまってから、我に返った。もしかしたら、自分は取り返しのつかないことを口にしてしまったのかもしれない。
 眩しい陽光が雲に遮られるように、修明の顔に翳が差した。
 不自然な沈黙が二人を支配する。
「申し訳ありません」
 翠華はすぐに謝った。
「今の言葉はお聞きにならなかったことにして下さい。人には誰しもけして訊いてはならないこと、触れてはならない部分があります。その方が望まれないのに、不必要に詮索するのは罪深い愚かなことです。どうか、不用意な私の言葉を許して下さい」
 翠華が心からの謝罪にも、修明は何の反応も示さない。その漆黒の夜の瞳は、静まり返ったオアシスのように、何の感情も読み取れない。
 本当に怒らせてしまったのだ―、翠華は迂闊な自分の発言を心から後悔した。恐らく、翠華は修明のけして踏み込んではならない心の奥の禁域に触れてしまったに違いなかった。
 ややあって、修明は真昼の陽差しに眩しげに眼を細めた。その双眸は、灼熱の太陽に支配される砂漠の空に向けられている。雲一つない蒼穹は、砂漠に生きる民にとって生命の源でもあるオアシスの色。
 修明が唐突に口を開いた。
「昔、若い頃に―そう、確か今の翠華と変わらない歳だった頃、私は取り返しのつかない過ちを犯した」
 修明は視線は依然として蒼い空へとなげられたままだ。その瞳は、あまりにも遠かった。
―修明は自らの過去に犯した罪を悔いている 
 翠華の中で閃くものがあった。修明のあまりにも静かすぎる瞳には、覆いがたい哀しみに彩られ、暗い光を潜ませている。その原因は、やはり修明の過去にあったというのか。彼が犯した罪への尽きることのない悔恨が、彼にあのような暗い眼をさせているのだろうか。
 砂漠を照らす太陽は容赦なく地上のすべてのものを焼き尽くす。修明は二、三度瞬きを繰り返し、漸く視線を動かして翠華を見た。
「翠華を身請けしたのも、私自身が犯した罪の、せめてもの罪滅ぼしというところかな」
「― 」
 思いもかけない言葉に、翠華は息を呑んだ。
 茫然とする翠華に、修明は薄く笑った。
「私の正体について訝しく思ったことはなかったか 」
 翠華は少し迷った後、正直に応えた。
「修明様は骨董を商っておられるのだとおっしゃいましたが、それにしては、お家の中に骨董品らしきものが一つもないのは、不思議だと思いました」
 修明はその言葉を聞いて、頷いた。
「やはり、翠華は私が見込んだとおり聡明な質のようだ」
 修明は笑顔のまま続ける。
「私が骨董商だというのは真のことだよ。そのこと自体に嘘はない。ただ、問題なのは商っている品のことだが 」
 修明の言葉の意味を計りか 、翠華は怪訝な面持ちになった。
「私が昔は盗賊だったと言ったら、翠華はどう思う またでたらめばかり言っていると笑い飛ばすか、それとも、こんな得体の知れぬ、うさんくさい人間ゆえ、そのようなこともあったやもしれぬと信じるだろうか」
 修明はむしろ翠華の反応を愉しむかのような表情で、彼女を見つめている。翠華は話の急展開に、言葉もない。
「砂漠の鷹の話を聞いたことがあるかな」
 唐突に言われ、翠華の眼が驚愕に見開かれた。彼女の眼は、修明の被り物からわずかに覗く右頬の疵痕を凝視していた。
 幼い頃、翠華も「砂漠の鷹」の名を耳にしたことはある。人々が魔の砂漠と怖れる広大な砂漠を縦横無尽に駆け巡り、行き交う隊商を襲っては略奪の限りを尽くす大盗賊。狙った獲物はけして逃さず、すべての物を奪い、ただの一人も生かしてはおかない冷酷非道な盗賊団の若き長を、人は「砂漠の鷹」と呼び、砂漠そのものがもたらす自然の脅威よりも怖れた。
 砂漠の鷹の顔を見た者は誰もいない。何故なら、不幸にも砂漠を渡る途中、彼に遭遇した交易商人たちは皆、物言わぬ骸となり砂漠の獣の餌食と化したからだ。ただ、若者ばかりを集めた盗賊団の中では年かさの、年の頃は二十歳過ぎであるということ、なかなかの男前であるけれど、右頬に鋭い疵痕があること―などが半ば伝説のように語られていたにすぎない。
 「砂嵐や夜の獣よりも砂漠の鷹には気を付けろ」、それが当時の砂漠の旅人たちの合い言葉であった。が、それほどに人々を恐怖の底に陥れた砂漠の鷹は、今から十年ほど前、急にふっつりと姿を見せなくなった。一説に熱砂の砂漠で行き倒れたのだとも、盗品を巡っての仲間内の争いで惨殺されたのだとも噂されたが、真相は判らず、砂漠の鷹の消息は絶えた。以後、砂漠を旅する商人たちは枕を高くして夜を過ごすことができたのである。
「まさか、修明様、あなたが―」
 知らず語尾が震えた。
 翠華は、眼前の男を見つめた。穏やかな笑みを浮かべる、この物静かな男が砂漠の鷹―? あまたの罪なき隊商の人々を襲い、許しを乞うて逃げ回る最後の一人まで刃をふるって息の根を止めたという残忍な盗賊?
 翠華の脳裡を修明と出逢ってから今日までの様々な出来事が駆け巡る。
 町でも評判の情け知らずの娼館の主に売られた翠華を、高額の金をなげうってまで助けてくれた。身請けした翠華の身体に指一本触れようもせず、優しく接してくれた。いつ、どんなときの修明を思い出してみても、彼が残酷非道を謳われた彼の大盗賊であったとは信じがたい。
 困惑する翠華を修明は静かな眼差しで見つめている。ただ静寂だけがよりいっそう密度を増していた。
 ふいに修明が伸び上がるようにしてリーラの樹の梢に触れたかと思うと、そっと翠華の髪に触れた。
「リーラの花だ」
 翠華は眼を瞠った。恐る恐る自分の髪に触ると、確かに一輪の花が飾られていた。五十年に一度しか開かぬという幻の花、彼の麗しき花が咲いていた―? 確かに、例えようもない芳しい香りが鼻腔をくすぐる。高みに咲いていたので、気づかなかったのだろうか。
 一陣の風が梢を渡り、リーラの樹の葉が一斉にさわさわと音を立てて揺れる。砂漠を渡る風は熱い熱を孕んでいる。
「今でも忘れられない出来事がある。多くの罪なき生命を手にかけてきたが、思い出すのは、いつも彼の人の苦悶と哀しみに満ちた表情ばかりだ」
 修明の視線が再び遠くなった。その眼は、昔の、彼が忘れられないという罪を犯した日を見つめているに違いない。
 翠華は、黙って修明の話に耳を傾ける。今の彼女には、それくらいしかできることはない。痛恨を込めて修明が語る昔語りを聞くことしかできない。
「昔、小さなオアシスで偶然一緒になった一組の旅の夫婦を襲った。二人ともまだ若く、妻の方は殊に若かった。多分、今の翠華よりも幼かったろう。私たちは、その夫婦者からすべての金品を奪い、妻を犯した。良人を拘束し、その眼の前で幼い妻を皆で慰み者にしたのだ」
 振り絞るような修明の告白に、翠華は両手で顔を覆った。
「そんな―」
 信じられなかった。優しい修明がそんな酷いことをしたなんて、信じたくなかった。
「もしかしたら、私は、ひとめでその少女に魅かれていたのかもしれない。リーラの花にも似ていた、可憐で美しい少女だった。そんな少女を独り占めする男が憎くて、わざと良人の前で大勢の仲間と少女を犯した」