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仙境綴り(せんきょうつづり)3~砂漠の鷹~

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 翠華の顔を見て、修明は微笑んで言った。翠華が小首を傾げると、修明は笑顔のまま言った。
「錦花楼の亭には話をつけてきた。これで、翠華は自由の身になったのだよ」
 翠華はその刹那、修明の言葉がにわかには信じられなかった。あの雇われ用心棒が言っていたとおり、錦花楼の主人は翠華を高い金を払って手に入れた。そんな大切な「商品」を欲深い亭が容易く手放すとは思えない。恐らく、相当な値を修明にふっかけたに相違ない。
 翠華は我が身にそれだけの価値があるとは思えず、行きずりの人にすぎない修明が何故、自分にそこまでの優しさを示してくれるのか解せなかった。初めは自分の身体目当てかと勘繰ってしまったが、どうやらそれは大きな見当違いであったようだ。
「―ありがとうございます」
 翠華には、そのひと言しか言えなかった。自分には彼の恩情に報いるだけのものは何もない。何と言って良いやら言葉もない翠華に、修明は優しい笑みを浮かべた。
「気にすることはない。これは、私自身が望んでしたことなのだ。翠華が気にすることはないのだ」
 修明はそう言っただけで、後は一切そのことについて言及しようとはしなかった。それ以後も、翠華を身請けしたことについて特に恩着せがましい態度を取ったりすることもなく、日々は変わらず過ぎていった。
 翠華が修明の家に来てから、ひと月が経った頃のことだ。ある夜更け、寝室の扉が軋む音を耳にしたような気がして、翠華は目覚めた。耳を澄ませていると、ひそやかな足音が漆黒の闇の底の中、近づいてくる。慌てて眼を閉じ、翠華は我知らず寝台の中で身を固くしていた。
 足音は寝台の手前でふっと止んだ。しばらく静寂が辺りを満たした。翠華は身じろぎもできず、呼吸さえはばかられるような沈黙に押し潰されそうだった。この静けさが永遠に続くかと思われた時、枕辺で再び人の動く気配が伝わってきた。思わず鼓動が速くなり、いっそう身体を強ばらせる。
 だが、そのひとは一向に動き出す様子はななった。翠華がそっと薄眼を開いてみると、夜陰にぼんやりと人影が浮かび上がっていた。燭台を手にしているらしく、淡い光がそのひとの顔を照らし出している。
 やはり、修明だった。翠華は妙な心持ちであった。修明への想いに気づいたのは、この家に来ていかほど経った頃のことだったろう。最初、自分は修明を兄のように慕っているだけだと思い込んでいたけれど、いつしかそんな想いとは違うことを知った。
 修明は三十になるという。十七歳の翠華には下に更に数人の弟妹がいて、成長期にろくに食べる物も食べられなかった。そのせいで、痩せぎすで少女らしい膨らみもない翠華は実年齢よりいつも幼く見られがちだ。「錦花楼」の主人亭明禄は奴隷商人に連れられてきた翠華をひとめ見るなり、「上玉だから、磨けば光るだろう」と言った。実際、彼女は美少女だったけれど、翠華自身は自分の美しさを少しも判っていない。修明は最初は十二、三歳だと思ったらしく、翠華が十七歳だと言うと、たいそう愕いていた。
 慣れてはいたけれど、修明に幼く見られたことにひどく傷ついたし、そんな自分は彼には女としてはさほど魅力がないのだろうと思えば、尚更落ち込んだ。修明が一つ屋根の下で共に暮らしながらも翠華に触れようとさえしないのは、自分に魅力がないせいだと思えば、哀しくなった。それならば、何故、彼が翠華を大枚を積んでまで身請けしたのか益々判らなくなる。修明は自分がそうしたかったからだと翠華に言ったけれど、その理由については依然として曖昧なままである。
 そして、ある時、翠華は一つの矛盾に気づく。
―私は、どうして修明様が私に触れようとしないことに、こんなにも傷つくのだろう。
 その瞬間、翠華は悟った。自分は他ならぬ修明に恋心を抱いているのだと。一つの事実に気づいてしまえば、後は自然と物事の全体が見えてくる。事実はあまりにも簡潔すぎた。翠華は修明に恋している。だから、修明が翠華を抱こうとしないことに、こんなにも傷つき哀しいのだ。
 更に静寂が続き、修明は漸く動き出した。翠華は急いで眼を閉じる。だが、修明はそのまま背を向けて部屋を出ていってしまった。翠華は寝台の中で寝たふりを装いながらも、信じられない想いでいっぱいだった。修明が夜這いに来たと期待したわけではない。
 しかし、修明が翠華の寝顔を見ただけでそっと出ていったことに、翠華の落胆を更に大きなものにした。寝室の扉が再び軋んだ音と共に閉じ、後は静寂が戻ってきた。同時に、翠華の身体中から力が一挙に抜けてゆく。翠華は、すっかり冴えてしまった意識を持て余しながら考えに耽った。蝋燭に照らし出された修明の表情には、暗い翳りが差していた。
 何故、修明はあんな哀しい表情(かお)をするのだろう。翠華を見つめていた切なげな眼差しは、何を訴えようとしているのだろう。翠華には見当さえつかない何か―深い哀しみが修明の奥底には隠されているのかもしれなかった。
修明の哀しみの原因がそも何なのかを知りたい。
 果たして翠華が彼の心の内にまで踏み込むのを、修明が許すかどうかは判らない。それでも、翠華は彼の孤独の理由を知りたいと切に願った。

 その翌日の昼前のことだ。
 翠華は庭で洗濯物を干していた。修明の家には、ささやかな庭がある。ここ揚の都は、広大な砂漠の中にある一大オアシス都市だ。揚はこの都の他にも、幾つか比較的大きなオアシスを中心とする町を持つ。無人の小さなオアシスも含めれば、まだまだたくさんのオアシスが点在するのだが、その周辺に人が住み、町や村を形成しているのは数が限られていた。
 小さな庭には、この国では割とよく見かけるリーラの樹が植わっている。その傍らに、つま先だって幾つめかの洗濯物を干そうとしたその時、翠華がバランスを崩した。弾みで身体が前につんのめり、転びそうになる。
「危ないッ」
 危ういところを背後から抱き止められたお陰で、事なきを得た。
「修明様」
 翠華は思わず頬を染めた。今、翠華は修明の逞しい腕の中に後ろからすっぽりと抱き込まれた形になっている。
 翠華は狼狽えて、修明の腕から逃れるように離れた。
「お帰りなさいませ。今日は、いつもよりお早かったのです 」
 朝早く仕事に出かける修明が昼食を取るためにいったん帰宅するのは、いつも昼過ぎだ。翠華は内心の動揺を懸命に押し隠し、無理に微笑んだ。
「すぐにお昼のご用意をいたします」
 修明は笑いながら首を振った。
「そんなに急がなくても良いのだよ。かえって、仕事の邪魔をしてしまったかな」
 翠華はまだ狼狽えてしまっていて、咄嗟に何と言葉を継げば良いか判らなかった。
 二人の間に不自然な沈黙が落ちる。
 その沈黙を破ったのは、修明の方であった。
「―リーラの香りだ 」
 唐突な指摘に、翠華はハッとした。
「あ―」
 ひと月前、露天商が餞別だと言ってくれた
香水、リーラの花の香りだという香水を今朝、ほんの少し髪につけてみたのだ。よもや修明がそれに気づくとは想像もしていなかったのだ。
 翠華の中で恋心が切なく疼いた。
「何故、そのように哀しい眼をしておいでなのですか」