仙境綴り(せんきょうつづり)3~砂漠の鷹~
その少女―だと思い込んでいた妻が実は少年であったことは、修明は翠華には告げなかった。たとえ彼の人が女であろうと男であろうと、修明の犯した罪の深さは変わりない。 やわからくて華奢な、少しでも力を込めれば脆くも壊れそうなほど儚い身体だった。あの細い身体を抱いたときの哀しげな顔、激情に任せて刺し貫いた瞬間の苦しみに満ちた表情―、すべてが今も修明の眼裏に灼きついている。あれから十年を経た今もなお繰り返し寝ざめの夢に現れるのだ。
その後、あの夫婦がどうなったのかは判らない。遭遇する者はすべて情け容赦もなく殺すはずの砂漠の鷹が何故か、あの夫婦者にとどめをさすことはなかった。十年前のあの悪夢の日、修明たちは若い夫婦をオアシスのほとりに置き去りにして去ったが、修明は出立の間際、良人の縛めを解いてやった。その行為は、非道を謳われた「砂漠の鷹」の中に唯一存在していた良心のかけらから発したものだったかもしれない。
しかし、いずれにしろ、灼熱の砂漠の過酷さの中、あの状況で二人が生きのびることは不可能であったに相違ない。あの日の記憶は、思い出す度に心の疼きを感じずにはおれない。
「どのような言い訳も通用はしない。彼の少女だけではない、私の奪った生命はあまりにも多い。私は死して煉獄に落ちるよりもなお深い罪を犯してきたのだよ、翠華」
修明が変わらない静かな眼差しで翠華を見る。これだけの話を聞かされても、翠華は不思議と修明を怖いとは少しも思わなかった。それは、恐らく翠華の知る修明があまりにも穏やかで優しかったからだ。修明は常に翠華に対して紳士的な態度を崩さなかった。
「何故か、その少女のことを忘れることはできなかった。私はその日を限りに『砂漠の鷹』であることを止めた。仲間を解散し、一人の男、 修明として生きてきた。商っている骨董は、昔の戦利品だ。誰も知り得ない場所にひそかに隠してある。それももう残りわずかになった。それらをすべて売りさばいたら―、私はこの世からいなくなるだろう」
修明は静かに語り終えた。その淡々とした口調は、到底壮絶な昔を語っているようには思えない。
「それは―、自ら生命を絶つということですか」
翠華は震える声で問う。
その問いかけにも、修明はあたかも当然の結論であるかのように頷いた。
「私のような男は本来ならば、とっくに死んでいても良い存在なんだ。もっとも、死んだからと言って、犯した数々の罪が消えるものではないが」
最後の台詞は、修明に似合わず自嘲的であった。それを聞く翠華の中で言い知れぬ哀しみが生まれた。
「修明様は私に優しくして下さいました! 私、最初は修明様が私を囲い者にするために身請けして下さったのだと思っていたのです。でも、修明様は私に触れようとさえなさらなかった」
いつも優しかった修明。それらの修明がすべて偽りであったとは思えない。
「翠華は私を買いかぶっているだけだ。翠華と同じ家に暮らしていたこのひと月、私が何度お前を抱こうと思ったか、翠華は何も判ってはいない。その度に辛うじて自制心がかって辛うじて事なきを得たが、実際に寝室まで忍び込んだことすらあったのだぞ。それでもなお、翠華は私を信じられるというのか」
刹那、翠華は叫んでいた。
「信じます、私は修明様を信じられます」
翠華は修明から眼を逸らすことなく、その視線を受け止めた。
「私は砂漠の鷹なのだぞ?」
修明の唇が、わずかに震えた。
翠華は首を振った。
「たとえあなたがたとえどこの誰であろうと何者であろうと、私は構いません。―お慕いしております」
その瞬間、修明の切れ長の双眸が愕いたように見開かれた。
「私は、私の見た修明様だけを信じます。私の眼に映ったあなただけが修明様のすべてだと思っています」
翠華の真摯な視線に、修明の瞳が揺れた。
その眼からひとすじの涙が溢れ、陽に灼けた頬をつうっとつたい落ちた。
「―これにて、すべての話を終わらせて頂きます」
美芳は三つの話すべてを語り終え、漸く肩の荷を降ろした心地であった。
仙界の美しき王は、さも満ち足りた表情で、ゆったりと頷く。
「良い話であった。修明が彼の砂漠の鷹であったとは、意外だったな」
美芳は、ひたとした眼差しを仙王に向けた。
「仙王様、修明は十年もの間、苦い悔恨と共に生きてきました。だからと言って、彼の犯した罪が消えてなくなるわけではございませんし、許されるわけではございませんが、修明もまた彼なりに己れの犯した罪によって苦しんだのでございます」
「そなたの申すとおりだ。人は他者によって裁かれるのみにはあらず。自らの罪を認め省みることにより、己れ自身に裁かれることもある」
仙王が頷くのを見て、美芳は続ける。
「人間には自らの過ちを悔いる心がございます。仙王様がお考えになっていらっしゃるより、人は存外に良い生きものにございますわ」
仙王は、大人びた表情の少女を見つめた。その麗しき顔に優しい微笑が刻まれる。
「そうだな、確かにそなたの申すとおりやもしれぬ。そなたの三つの話を聞いて、真、人間とは弱きものだが、その反面、強く美しき心を併せ持つものだとよく判った」
仙王は、しみじみと頷いた。
「そんな心優しく聡明なそなたゆえ、我が妻とし共に長い刻を過ごしてゆきたかったのだが、良い、母の待つ人界へと疾く帰るがいい」
仙王が呟いたかと思ったその瞬間、美芳はふうっと意識が遠のくのを感じた。
再び気がついた時、美芳は緑の樹々に囲まれた川のほとりに倒れていた。
―私、一体どうしたのかしら。
病の床にある母のために、昆論山の頂上まで宝寿草を採りにきて、父の形見だというペンダントを川に落としてしまった。それから、ペンダントを拾おうとして、自分まで誤って川に墜落したのだ。―そこまでは記憶している。
長い夢を見ていたような、あるいは、長い旅から帰ってきたような気がする。
夢の中で、美芳は美しい仙界の王と出逢った。光り輝く水晶の宮殿で彼の王と過ごしたひとときは、幻だったのだろうか。
想いを馳せたていた時、美芳はハッとした。
美芳の倒れていた側には、やわらかな緑の葉で満たされた籠があった。そして、彼女の首には川に落としたはずの首飾りが輝いている。亡き父が母に贈ったという涙の雫をかたどった透明な石が陽の光を受けて、きらめいている。
「宝寿草―」
美芳は呟くと、籠を胸に抱きしめた。
「仙王様は約束を守って下されたのだわ」
美芳は、まだ夢の中をたゆたっているような心地で独りごちた。
静かな川のせせらぎが響き、清涼な風が吹き抜けてゆく。清澄な空気がここが現と現ならぬ世をつなぐ狭間であることを何とはなしに象徴しているかのようでもあった。
完
作品名:仙境綴り(せんきょうつづり)3~砂漠の鷹~ 作家名:東 めぐみ