仙境綴り(せんきょうつづり)3~砂漠の鷹~
「追われているの。お願い、助けて 」
男は咄嗟に少女が駆けてきた往来の向こうを見た。数人のいかにも人相の良くない男どもがこちらへ向かってくる。
「翠華」
見るからに荒んだ様子の男に名を呼ばれ、少女はビクリと身を震わせた。数人いる男はいずれもどこかの商家の用心棒といった様子だが、少女に声をかけたのは、その中でも首領格らしい、ひときわ酷薄そうな顔つきの若い男であった。
「こっちへ来るんだ、翠華」
首領格の男が一歩前へ進み出る。翠華と呼ばれた少女が気圧されたように後ずさった。取りすがった少女の上着を握りしめる指先にいっそうの力がこもったことに、男は気づいていた。
「どう見ても、この子は嫌がっているようにしか見えない。見れば、まだ年端もゆかぬ子どものようだ。お前たちは、こんな子ども一人にいい大の男がよってたかって何をしようというんだ 」
震える少女を背後に庇うような態勢で、男は詰め寄ろうとする首領に言った。
「おっさん、カッコつけるのは良いが、あまり出しゃばり過ぎない方が身のためだぜ 俺たちは『錦花楼』の亭の旦那に雇われている者だ」
首領はニヤニヤと薄ら笑いを浮かべて、男を めつけた。「錦花楼」といえば、町でも一、二を争う大きな娼館だ。その主人の亭明禄といえば、情け容赦もない男としてまたその名を知られている。抱えている娼妓をそれこそ物のように扱い、酷使するという専らの噂だ。亭はまた町の顔役でもあり、亭に逆らってこの町で無事に暮らすことはできないとまで言われている。
あまりの非情さに影では「蠍」と呼ばれていた。
「ホウ、あの情け知らずの『蠍の亭』の用心棒か。さしずめ、蠍に飼われた犬というところかな」
亭の名を出せば、相手がたちどころに怯むかと思いきや、涼しい顔で犬呼ばわりされたのだ。首領は屈辱と怒りに顔を朱に染めた。
「何だとォ」
首領はいきり立った。対する男はあくまでも冷静でいっかな取り乱す風もない。それがかえって首領の怒りを煽っているようでもある。
「てめぇ、黙って聞いてりゃア、言いたい放題ほざきやがって」
首領が懐から何やら取り出した。懐剣の刃が眩しい陽光にギラリと不気味にきらめく。
少女が小さな悲鳴を上げ、露店の主人を初め、その場に居合わせた人々誰もが固唾を呑んだ。
その時、男が頭の被り物をおもむろに手で払いのけた。男の横顔が露わになり、その拍子に右頬が皆の眼に入った。何と、男の右頬には鋭い疵痕があった。赤く引きつれた傷の跡はあたかも火傷の跡のようにも見える。なまじ男の容貌が端整なだけに、その疵痕の悲惨さが余計に際立っている。
男は酷い疵痕を隠すこともせず、真っすぐに首領を見据えた。
「この娘の身柄は、私が預かる」
首領は苛立ちと憤りに赤くなりながらも、こえを震わせて言った。
「翠華は亭の旦那が昨日、奴隷商人から大枚をはたいて買い上げたばかりなんだ。この器量だから、直に稼ぎ頭になると期待をかけている娘だぞ。そんな女を横取りしてみろ、お前、ただでは済ま ぇのが判ってるのか」
その脅し文句にも、男は眉一つ動かさない。
「良かろう。確かにその言葉、聞かせて貰った」
男があくまでも静かな声音で応じると、首領が鼻白らんだ。男が更に続ける。
「それとも、まだ何か言うことがあるのか」
それは沈着極まりない態度であったが、それだけに余計にその底に潜む危うさを窺わせた。男の態度には底知れぬ不気味さがある。身体全体から刃物ののような研ぎ澄まされた雰囲気が漂っており、彼がただ者ではないことを感じさせた。
その圧倒的な威圧感、存在感に気圧されたように、首領がわずかにあとずさった。
「憶えてろよ」
首領が悔し紛れに言い捨て、背を向ける。このような場合、大抵、負け犬が吠えて口にする常套句である。他の若いごろつきどもも慌ててそれに従った。
「ありがとうございました」
まだかすかに身体を小刻みに震わせながらも、娘が気丈に男に頭を下げた。男は淡く微笑した。先刻の凄みは既になく、ただしずまり返った湖面のように静かな表情である。その穏やかな微笑を浮かべた様は先刻の男とは別人であった。
「いや」
男は淡く微笑したまま、小さく首を振った。
「行くところがないのなら、私について来ると良い」
男の言葉にわずかな躊躇いを見せた娘に、一部始終を見ていた露天商が側から言った。
「お前さん、危ないところだったな。錦花楼の亭といえば、この界隈では鬼のように血も涙もない奴だと皆に嫌われてる奴だよ。あそこで働かされている遊女は大半が三年と身が持たない。亭の奴が顎でこき使って、次から次へと客を取らせるから、直に身体を壊しちまう。悪いことは言わない、今はその旦那についていった方が身のためだ」
露天商は娘に小さな瓶を差し出した。
「これをお前さんにやるよ。持っていくと良い」
差し出されたのは、商い物の香水であった。
娘が露店の主の顔を見ると、主人は笑顔になった。その笑顔は存外に人の好いものだ。
「リーラの花の香水だ。お前さんの新たな旅立ちへの餞といったところかな」
少女は小さな瓶を胸に抱きしめ、ペコリと頭を下げた。
「ありがとうございます」
「礼なんか良いから、早く行きな」
露天商が顎をしゃくる。見れば、先刻少女を助けた男は既に数歩先を背中を見せて歩いていた。
その背中は、ついて来たければついて来いと言っているようにも見えた。少女は少し迷った挙げ句、駆けだした。どうせ、他にゆくべき当てもない寄る辺ない身の上なのだ。やがて、頬に疵痕のある男と少女の姿もひっきりなしに行き交う人群の中に吸い込まれ、見えなくなった。
露天商の男は、二人の消えた人群をずっと見ることもなしに見つめていた。
翠華が連れられていったのは、市で賑わう町中からかなり歩いた町外れにある小さな家であった。三部屋しかない小さな家ではあったけれど、男一人の住まいにしては整然としており、男の几帳面さを物語っているようにも思えた。男は名を高修明と名乗った。修明は最も奥まった部屋を翠華に与え、自分は一部屋隔てた厨房に寝起きした。それは、修明が翠華をどうこうするつもりで連れ帰ったのではないという彼の意を如実に表していた。
だが、修明の家に連れ帰られたその日の夜から、翠華は覚悟していた。いつ彼が自分の寝室に忍んでくるかと毎夜、悲愴な気持ちで夜を迎えた。貧しい家に生まれ育ち、実の両親にさえ奴隷商人に売り飛ばされた翠華にしてみれば、修明が何の下心もなく自分を助けてくれたとは到底信じられなかったのだ。
だが、予想に反して、修明が寝室へ来ることはなく、日は穏やかに過ぎていった。修明に命じられたわけではなかったが、翠華は進んで食事の支度や洗濯などを引き受けた。
ある日の夕刻、夕食の準備を整えていると、修明が外出から帰ってきた。修明は骨董を商う仕事をしているらしい。それは彼自身が自ら語ったことだが、その割には家の中は整然としており骨董らしいものは何一つ見られなかった。修明には最初から得体の知れない雰囲気があったけれど、翠華は頓着しなかった。彼女にとって修明は生命の恩人に相違なかった。
「もう、大丈夫だ」
作品名:仙境綴り(せんきょうつづり)3~砂漠の鷹~ 作家名:東 めぐみ