仙境綴り(せんきょうつづり)3~砂漠の鷹~
其の三
―この世ならぬ仙界を統べる美しき王を仙王と呼ぶ。仙王は森羅万象を司る偉大なる王にして、天地創造の父なり。その昔、地上には三つの大国が存在した。即ち、超、羅、揚の三国なり。その繁栄を誇りし様、あたかも地上の楽園のごとく、人々は歌い踊り愉しみ、享楽の美酒に酔いしれる。彼の美しき王の驕れる人間への憤り深く、その怒りをもちて、ついには国を滅ぼしたり。世は再び長き動乱の世に入り、仙王は昆論山の奥深くにあるという水晶宮に籠もる―。
美芳は膝の前にきっちりと組んだ両手に力を込めた。
「それでは、これより最後の話をさせて頂きます」
仙界の長である仙王は麗しい貌に、艶やかな笑みを浮かべる。
「ああ、今度はいかなる話を聞かせてくれるのであろうか、楽しみにしているぞ」
仙王の齢は定かではない。一説には百、二百年以上も生き続けていると云われているが、この世を創ったと云われている創造主でもある彼にとっては、百年という月日などは瞬きをするほどの呆気なさであるに相違ない。ゆえに、百年なぞという短い単位で彼の年令を考えること自体が土台愚かなことなのかもしれない。
我々人間の常識では到底及びもつかない、はるけき刻の中で存在し続けている、それが仙王なのだ。しかし、年齢不詳の仙王も、見かけは二十代の青年にしか見えない。まるで女性かと見紛うほどの妖しい美青年だ。
昆論山脈の頂上にあるという水晶宮が伝説の王の住まいだという。昆論山のふもとの村に住む貧しい少女美芳は、病の床にある母のために幻の薬草宝寿草を探しに昆論山に出かけた。緑深い山奥に分け入った美芳は誤って川に落ちた。意識を取り戻したときには、水晶宮に迷い込んでいた。
仙王の求めに応じて、美芳は三つの話を彼のために語った。宝寿草を持って無事に母の許へ帰りたければ、彼の王を満足させる話を三つしなければならない。美芳の口から紡ぎ出されるのは、はるかな昔、遠い砂漠の国の物語。人など想像もつかないほどはるかな刻を越えて生きる仙界の王すら知らぬ、夢語り。
―砂漠の鷹―
往来を行き来する人に向かって声高に叫ぶ物売りの声があちこちで行き交う。道を挟んだ両脇には、隙間もないほどにびっしりと露店が軒をつら 、その前をひやかしながら通り過ぎてゆく人足が絶えることはない。見た目も鮮やかな南国産の果物がどっさりと山のように積まれている店もあれば、きらびやかな装身具を売る店もある。
「いらっしゃい、いらっしゃい」
その中でも女性客が目立つ小さな露店の主は、小柄ででっぷりと太っていた。年はそろそろ五十に手が届くという頃合だろうか。砂漠の民であることを示す長衣に頭には被り物をしている。
彼は先刻から一人の客の動向を見るとはなしに見ていた。まだ三十そこそこほどの男が熱心に露台の品々を検分している。この露店では香水を商っている。道理で、女性の客が多いはずだ。
露天商は抜け目のない視線で、客の男を見つめた。小柄な彼からみれば、見上げるような長身に無駄な筋肉など一切ないスラリとした身体は、見事なまでに鍛え上げられている。外国人の出入りが多いこの揚国だが、生粋の揚国人らしく、砂漠の民特有の黒い髪、黒い眼、小麦色の肌をしている。
三国共通の言語―公用語が定められているものの、実際に使用される機会は意外に少ないのが現状である。今も市の喧噪の中で聞き取れる会話の断片は、それぞれの国の言葉が圧倒的に多い。どの国でも幼い時分から他国の言葉を習うので、簡単なやり取りなら誰でもできるし、日常の生活に支障をきたさない程度の語学能力を持っているのが普通なのだ。三国のどの小学校でも公用語の他に他国の言語、つまり外国語が正規の授業としてカリキュラムに取り入れられている。
揚は元々砂漠を自在に駆け巡る民族の集まりであった。その国土の大半が砂漠地帯を占めている。砂漠には、似たようなあまたの部族が幾つもあり、それらの小部族が集まって比較的大きな部族となった。更にその大部族が併合して一つの大きな塊となり、最後に国家としての形態を持って誕生したのが揚である。早くにできた超や羅から見れば新興国であり、「砂漠の蛮族」からなる国家にすぎないが、その勢力は侮れない。
現在、三国の間には表面的には和平が保たれているものの、ひとたび戦が起これば、砂漠の猛者とその勇猛果敢さで畏怖されている揚の兵士たちに超や羅の兵士たちは太刀打ちもできないだろう。
「親父さん、この香水はリーラの花から採ったものだと先刻言っていたが」
男がふいに露店の主に訊 た。主は浅黒い顔に如才のない笑みを浮かべ、愛想良く応える。
「そのとおりですよ、旦那。この砂漠の国にしか咲かない、しかも五十年に一度しか開花せぬという幻の花から採った花びらをふんだんに使っています」
砂漠の国である揚ではさほど珍しくはないリーラの花は別名宝寿草とも呼ぶ。超では宝寿草の名が一般に広く知られており、梨羅と音訳されることもある。羅では砂漠を行き交う商人たちがはるかに海をも越えてリーラを持ち帰り、その栽培に成功した。超においては冬の寒さの厳しさから、いまだ栽培に成功はせず、「幻の花」と珍重されていた。リーラの葉を煎じれば、万病に効くという薬草にもなり、かつて超の三代皇帝は臣下に遠い砂漠までリーラを探しにゆかせたが、ついに幻の花を持ち帰ることはできなかった。
「どうですか、旦那。奥さんに一つ是非お求めになっては」
主が勧めると、男は苦笑いを刻んだ。
「生憎と私は独り身なものでな。買って帰ろうにも贈る相手がいない淋しい身の上なのだよ」
と、主が探るような眼で男を見つめた。
「冗談でしょう 旦那ほどの男前に想いを寄せる女の一人もいないなんて、それこそ誰も信じやしませんぜ」
確かに主の言うとおり、男はなかなかの男前であった。美男というのではないが、精悍な面立ちの、苦み走った風貌はなるほど女性たちの注目を集めるには違いないと思われる。現に、今も店先を覗く若い娘たちは男の方をじっと見つめている。
いくら揚ではリーラの樹が自生しているとはいえ、このような町の市で売る安物の香水
に真にリーラの花びらが使われているのかどうかは、はなはだ疑わしい。だが、男は今更そんな無粋な問いを口にする気もないらしく、穏やかな微笑をうっすらと髭をたくわえた口許に浮かべているだけだ。
「いや、お褒めにあずかったのは光栄だが、本当に香水など気の利いたものを買い与えるような女はいないのだ」
男は静かに笑いを含んだ声音で断じた。
露天商もそこは商人のこと、露骨に嫌な顔もせず愛想よく受け流す。
「さようでございますか、それではまた、次の機会には是非ご贔屓にお願い申し上げます」
それですべての話が終わるはずだった。客の男がさりげなく店を離れようとしたまさにその時。
往来の向こうから悲鳴が聞こえた。ほどなく蒼い顔で駆けてきた少女が一人。見れば、十二、三ほどの子どもと言って差し支えのない年頃だ。幼さの残る顔はひどく怯えており、
よほどの切羽詰まった状況に陥っているのだと察せられる。
「どうした 」
男は逃げ込んできた少女に優しく問うた。少女は怯えた眼で男の上衣の袖を掴んだ。
―この世ならぬ仙界を統べる美しき王を仙王と呼ぶ。仙王は森羅万象を司る偉大なる王にして、天地創造の父なり。その昔、地上には三つの大国が存在した。即ち、超、羅、揚の三国なり。その繁栄を誇りし様、あたかも地上の楽園のごとく、人々は歌い踊り愉しみ、享楽の美酒に酔いしれる。彼の美しき王の驕れる人間への憤り深く、その怒りをもちて、ついには国を滅ぼしたり。世は再び長き動乱の世に入り、仙王は昆論山の奥深くにあるという水晶宮に籠もる―。
美芳は膝の前にきっちりと組んだ両手に力を込めた。
「それでは、これより最後の話をさせて頂きます」
仙界の長である仙王は麗しい貌に、艶やかな笑みを浮かべる。
「ああ、今度はいかなる話を聞かせてくれるのであろうか、楽しみにしているぞ」
仙王の齢は定かではない。一説には百、二百年以上も生き続けていると云われているが、この世を創ったと云われている創造主でもある彼にとっては、百年という月日などは瞬きをするほどの呆気なさであるに相違ない。ゆえに、百年なぞという短い単位で彼の年令を考えること自体が土台愚かなことなのかもしれない。
我々人間の常識では到底及びもつかない、はるけき刻の中で存在し続けている、それが仙王なのだ。しかし、年齢不詳の仙王も、見かけは二十代の青年にしか見えない。まるで女性かと見紛うほどの妖しい美青年だ。
昆論山脈の頂上にあるという水晶宮が伝説の王の住まいだという。昆論山のふもとの村に住む貧しい少女美芳は、病の床にある母のために幻の薬草宝寿草を探しに昆論山に出かけた。緑深い山奥に分け入った美芳は誤って川に落ちた。意識を取り戻したときには、水晶宮に迷い込んでいた。
仙王の求めに応じて、美芳は三つの話を彼のために語った。宝寿草を持って無事に母の許へ帰りたければ、彼の王を満足させる話を三つしなければならない。美芳の口から紡ぎ出されるのは、はるかな昔、遠い砂漠の国の物語。人など想像もつかないほどはるかな刻を越えて生きる仙界の王すら知らぬ、夢語り。
―砂漠の鷹―
往来を行き来する人に向かって声高に叫ぶ物売りの声があちこちで行き交う。道を挟んだ両脇には、隙間もないほどにびっしりと露店が軒をつら 、その前をひやかしながら通り過ぎてゆく人足が絶えることはない。見た目も鮮やかな南国産の果物がどっさりと山のように積まれている店もあれば、きらびやかな装身具を売る店もある。
「いらっしゃい、いらっしゃい」
その中でも女性客が目立つ小さな露店の主は、小柄ででっぷりと太っていた。年はそろそろ五十に手が届くという頃合だろうか。砂漠の民であることを示す長衣に頭には被り物をしている。
彼は先刻から一人の客の動向を見るとはなしに見ていた。まだ三十そこそこほどの男が熱心に露台の品々を検分している。この露店では香水を商っている。道理で、女性の客が多いはずだ。
露天商は抜け目のない視線で、客の男を見つめた。小柄な彼からみれば、見上げるような長身に無駄な筋肉など一切ないスラリとした身体は、見事なまでに鍛え上げられている。外国人の出入りが多いこの揚国だが、生粋の揚国人らしく、砂漠の民特有の黒い髪、黒い眼、小麦色の肌をしている。
三国共通の言語―公用語が定められているものの、実際に使用される機会は意外に少ないのが現状である。今も市の喧噪の中で聞き取れる会話の断片は、それぞれの国の言葉が圧倒的に多い。どの国でも幼い時分から他国の言葉を習うので、簡単なやり取りなら誰でもできるし、日常の生活に支障をきたさない程度の語学能力を持っているのが普通なのだ。三国のどの小学校でも公用語の他に他国の言語、つまり外国語が正規の授業としてカリキュラムに取り入れられている。
揚は元々砂漠を自在に駆け巡る民族の集まりであった。その国土の大半が砂漠地帯を占めている。砂漠には、似たようなあまたの部族が幾つもあり、それらの小部族が集まって比較的大きな部族となった。更にその大部族が併合して一つの大きな塊となり、最後に国家としての形態を持って誕生したのが揚である。早くにできた超や羅から見れば新興国であり、「砂漠の蛮族」からなる国家にすぎないが、その勢力は侮れない。
現在、三国の間には表面的には和平が保たれているものの、ひとたび戦が起これば、砂漠の猛者とその勇猛果敢さで畏怖されている揚の兵士たちに超や羅の兵士たちは太刀打ちもできないだろう。
「親父さん、この香水はリーラの花から採ったものだと先刻言っていたが」
男がふいに露店の主に訊 た。主は浅黒い顔に如才のない笑みを浮かべ、愛想良く応える。
「そのとおりですよ、旦那。この砂漠の国にしか咲かない、しかも五十年に一度しか開花せぬという幻の花から採った花びらをふんだんに使っています」
砂漠の国である揚ではさほど珍しくはないリーラの花は別名宝寿草とも呼ぶ。超では宝寿草の名が一般に広く知られており、梨羅と音訳されることもある。羅では砂漠を行き交う商人たちがはるかに海をも越えてリーラを持ち帰り、その栽培に成功した。超においては冬の寒さの厳しさから、いまだ栽培に成功はせず、「幻の花」と珍重されていた。リーラの葉を煎じれば、万病に効くという薬草にもなり、かつて超の三代皇帝は臣下に遠い砂漠までリーラを探しにゆかせたが、ついに幻の花を持ち帰ることはできなかった。
「どうですか、旦那。奥さんに一つ是非お求めになっては」
主が勧めると、男は苦笑いを刻んだ。
「生憎と私は独り身なものでな。買って帰ろうにも贈る相手がいない淋しい身の上なのだよ」
と、主が探るような眼で男を見つめた。
「冗談でしょう 旦那ほどの男前に想いを寄せる女の一人もいないなんて、それこそ誰も信じやしませんぜ」
確かに主の言うとおり、男はなかなかの男前であった。美男というのではないが、精悍な面立ちの、苦み走った風貌はなるほど女性たちの注目を集めるには違いないと思われる。現に、今も店先を覗く若い娘たちは男の方をじっと見つめている。
いくら揚ではリーラの樹が自生しているとはいえ、このような町の市で売る安物の香水
に真にリーラの花びらが使われているのかどうかは、はなはだ疑わしい。だが、男は今更そんな無粋な問いを口にする気もないらしく、穏やかな微笑をうっすらと髭をたくわえた口許に浮かべているだけだ。
「いや、お褒めにあずかったのは光栄だが、本当に香水など気の利いたものを買い与えるような女はいないのだ」
男は静かに笑いを含んだ声音で断じた。
露天商もそこは商人のこと、露骨に嫌な顔もせず愛想よく受け流す。
「さようでございますか、それではまた、次の機会には是非ご贔屓にお願い申し上げます」
それですべての話が終わるはずだった。客の男がさりげなく店を離れようとしたまさにその時。
往来の向こうから悲鳴が聞こえた。ほどなく蒼い顔で駆けてきた少女が一人。見れば、十二、三ほどの子どもと言って差し支えのない年頃だ。幼さの残る顔はひどく怯えており、
よほどの切羽詰まった状況に陥っているのだと察せられる。
「どうした 」
男は逃げ込んできた少女に優しく問うた。少女は怯えた眼で男の上衣の袖を掴んだ。
作品名:仙境綴り(せんきょうつづり)3~砂漠の鷹~ 作家名:東 めぐみ