人情日常大活劇『浪漫』
「もうね……疲れたんですよ。人生ってものに。死に切る度胸もありませんけど。人と関わる度胸は、もっとありません。もう、いいんです。もう、どうでもいいんですよ……」
視界に地面が広がる。汚らしい、崩れたドブネズミの死体に、蟻が群がっていた。
こうして、食われてしまえば気も楽だろう。糧になれれば、楽になることだろう。
もう、いろんなことが。関わってきた人も物も、全部。どうでもいいのだから。
「そうか」
ただ、一言。
頭上から響く声は、その一言だけを告げた。
きっと彼らも、もう僕がどうでもよくなったのだろう。ならば、もういいじゃないか。そう思った。
「よくわかった。あんたは今まで、死ぬほどつらい目をした人も、それを為した人達も、腐るほど見てきた。それで人生に絶望した。挙句に逃げ出して、その先ではお涼ちゃんに拒絶されて、また見捨てた。なるほど、それであんたはもうどうでもよくなった。うん、よくわかったよ大和。でもな」
ふと、本当になんとなく、顔を上げる。首元をつかまれた。そのまま無理やり立たされる。
「ひとつだけわかんないから、聞くぞ。いいか、一回しか聞かないから、耳の穴かっぽじってよく聞け。よおく聞けよ。
あんたは──『浪漫』が好きじゃなかったのか」
……え?
まっすぐ過ぎるほどまっすぐに、僕を見つめる双眸が見える。その眼は、輝きを失っていない。
「『浪漫』が、あたしや影ちゃんがいて、あんたに酒飲まそうとして。それを遠くからやれやれって顔でお涼ちゃんが眺めて。毎日宴会やって、どたばたして。仕事も手伝って、笑い話も過去のつらい話もして。そんな日々が、そんな場所が。お涼ちゃんとあたし達皆が作っていた、そんな時間が あんたは、好きじゃなかったのか」
好きじゃ、なかったのか。好きじゃ、なかったのか?
「あんたがどれほど人生に絶望しようと勝手だ。けどな、あたしは好きだった。お涼ちゃんがいて、影ちゃんがいて、あたしがいて、あんたがいた、あの空間が大好きだった。だからあたしは止めに行くよ、お涼ちゃんの結婚をな。あの子がいない『浪漫』なんてのは──つまらないからな」
「う、あ」
「あんたがこれからどうするか、それは知らない。お涼ちゃんの結婚を止めるかどうか、それは強制できない。けどな、もしもあの場所が好きだったんなら あそこに居場所を、少しでも感じていたんなら。どれほど人生に絶望しても、逃亡を繰り返していても、あんたがどんな残虐非道な人間だったとしても! そんな程度で、そんなことぐらいで、そこを守っちゃいけない理由になんか、なるわけないだろうが!」
心に響く言葉が頭の中で残響する。
自分のいたい場所を、心地よい場所を守っていけない理由には、ならない。決して、なるわけがない。
「当たり前のことだ! いいか、こっからはあんたが自分で考えろ。あんたがどうしようと、あたしは行く。ついてきたいんなら、勝手にしろ!」
そう言って、蓮さんは手を離した。尻もちをつく僕。
彼女は踵を返し、路地を去っていった。その背中は、力強く、ただただ──輝いていた。
「……相変わらず、蓮さんはきついですな。いやはや、女性は怖い」
ずっと見ていた影朗さんが、朗らかに笑いかけてくる。この人は、いつどんな時でも、笑顔を崩さない。たぶん、この先もずっと、この人はこの笑顔で。人を救っていくんだよな。
「ま、私の言いたいこともだいたい同じなのですよ、大和少年。あなたの大切なものを守るのに、理由も理屈もいりません。大事なのは、気持ちひとつです。さて、あなたは、どうしたいのですかな? よければ、聞かせてください」
「僕、は」
どうしたいか。どこに行って、何をして、誰といたいか。誰といっしょに、時を過ごしたいか。そんなのは、そんなことには 確かに、理屈も理由もない。考えるまでも、ないことだった。
「……決まってます」
「ほう。して、その心は?」
空を、上を見据えて、僕は立ち上がる。前を向く。一歩ずつ、確実に歩きだす。
そうして僕は、これまでの無様を消しさるように、精一杯格好をつけて、知ってる限り一番格好のいいセリフを、言い放った。
「望まぬ結婚をする花嫁なんてのは 盗んでやるに、限りますよ」
* * *
白一色で統一された、結婚式場の控え室。周りにいるのは、専属のブライダルスタッフ。それが私の今いる場所。その用意された場所で、まるで人形のように、重ね着のウェディングドレスを着せられ、化粧が施されていく。
まったく、どうしてこんなことになるのかね。もはや襲い来る運命を理不尽と思うことすら、面倒くさい。
生まれた時からプリンセスとして育てられ、物心ついたときには、自分が王室の人間であることを理解していた。そして、国の状態と、それを救う人柱に、自分がなることも。歳を重ねるごとに、自分の運命をはっきりと予感していった。そして今日、その予感は現実のものとなる。
「はい、できましたよ、お嬢様」
「まぁ、お綺麗ですわ……」
そうこうしているうちに、身支度は終わったらしい。周りから称賛の声が聞こえるも、別にうれしいとは思えない。ただ、時間が来た、それだけのことだ。衣装係とメイク係から離れ、一人式場である教会へと向かう。
まったく、お相手は合衆国軍部のお偉いさん、その御曹司だとか。世界最強の国の、甘い汁だけ吸って生きてきたボンボンが、私の伴侶とはね……。
国を救う使命を放りだす気はないけれど、もう少しまともな人間と結婚したかったものだ。『浪漫』で出会った人々のように、金も富もなくても、とても豊かなやつとかね。
そう言えば、あのガキはどうなったかな。一時のわがままで運営してた飲み屋で、少しの間雇った少年。営業妨害だって言ってビンを投げつけただけの縁。それだけで雇うことになった、捨てられた犬みたいな目で人を見るやつ。いろんなことから逃げていた少年。
蓮や影朗と関わって、少しずつだけど店になじんできたあいつ。私の作ったかりそめの止まり木も、あいつの居場所になれたのなら、それでよかったのかもしれないな。
もう、会うことはないのかもしれないけど。しかしまぁ、あいつならきっと他にも居場所を見つけることができるだろう。私のできることなんて、もう何もないんだよ、きっと。
柄にもなく感慨に耽っていた間に、式場にたどりついた。仰々しい設えの門扉が開く。
天井は高く、あちこちに設置された窓ガラスから、太陽の光をふんだんに取り入れる造りの式場。その上あちこちに電飾と宝石のようなガラス細工が飾られ、一層の豪華さを示す。一体、どれほどの予算を投じれば、これができるというのだろう。国民は貧困にあえいでいるというのに。金というのは、本当にあるところにはあるものだな。
「おお……」
「いや、実にお美しい」
規則正しく並べられた長椅子には政府関係者がずらり。賛美の言葉が飛び交っているようだが、このうち本当に祝福しているものなど、ほとんどいない。実にばかばかしい。こんなものは、単なる儀式で、儀礼に過ぎないというのに。
式場の最前線には、燕尾服に身を包んだ、嫌にもみあげの長い外人。金髪碧眼、明らかに合衆国人だった。
作品名:人情日常大活劇『浪漫』 作家名:壱の人