人情日常大活劇『浪漫』
おそらくこの人は、本当に死ぬその瞬間まで、演芸の道を踏み外すことをしないだろう。これが、涼子さんの言っていた意味か。本当に、みんな、それぞれの事情を抱えている。絶望を、背負っている。けれど、影朗さんも、そして蓮さんも。誰もかれもが、自分なりに前を向いている。
本当、強い人達だ。どこからその強さが出てきているのだろうか。その答えを、いつか僕も、手にすることができるのだろうか。
今はまだ、わからなかった。
* * *
草木も眠るかのような深夜。眠らないと言われる繁華街もそのにぎわいを少し弱らせ、街がわずかに暗がりを取り戻すころ。
僕と影朗さんは雑踏を通り抜け、『浪漫』へと帰還していた。聞けば、影朗さんは基本的にホームレスで、日ごとに寝る場所も変えるありさまだという。ならば、今日の話の代金代わりということで、僕の部屋に一晩泊ってもらう運びとなったわけだ。
今日は『浪漫』も休業日であることだし、影朗さんは常連客で、涼子さんとも顔なじみ。特に問題もなかろうと、軽い気持ちのまま、店先まで来たのだが。
店の様子が明らかにおかしかった。
繰り返すが、今日は休業日。加えて今は深夜だ。店は暖簾もかかっていなければ、ランプの明かりも漏れているはずがない。にも関わらず入口の引き戸は開かれ、奥の部分──仕込みや手の込んだ料理をするスペースからは明かりが見え、人の声のようなものまで聞こえてきた。
数人の男のものと女性のものだ。女性の方は涼子さんだとして、残りは一体?
「大和少年」
「ええ」
影朗さんも、さすがは元軍人と言うべきか、不穏な空気を察したらしい。二人して、店の中へと駆け込む。
そこには普段とは明らかに違う、危険な空気が蔓延していた。
いたのは、数人の男たち。全員が屈強で、はち切れんばかりの筋肉を黒で統一したスーツで包んでいた。色眼鏡をかけ、涼子さんの周りを囲んでいる。
僕らが入ると、彼らは一斉にこちらを睨んだ。
「おかえり、大和、影朗」
そんな中、もはや度胸がいいとか言う次元を超えているかのような表情──つまりはいつもと同じ笑顔で──涼子さんが迎えてくれた。だが、周りの男たちはそうは問屋が卸さない状態だ。
「んだ、てめぇら」
「……あんたらこそ、なんなんだ」
僕は、精一杯ドスを利かせた声を発する。別に怖がって虚勢を張ったわけではない。この手の相手は、一度隙を見せたらだめなのだ。
この程度は何度も経験している。
「てめぇにゃ関係ねーんだよ、坊主。ガキはさっさと糞して寝ろや」
「涼子さんに、『浪漫』に何の用だ」
「しつけーんだよ、と。おい」
細い目をした、リーダー格らしき男の合図で、残りの男たちが僕らの方へと歩きだす。全員武器は持っていない様子だ。
十代半ばやそこらの、まだ手足も完全には伸び切っていない子供と、中年一人。こんなやつらには、素手で十分──そう判断したのだろう彼らは、嘲りの笑みさえ浮かべていた。
……なめるなよ。
「おい、よせ! そいつらは関係ないだろ!」
「黙ってていただきましょう……礼儀のわかっていない若者には、少し教育が必要ですからな」
涼子さんの制止の声もむなしく、男たちは僕らに近づく。一歩、二歩。
そして、三歩め。お互いの間合いに入った瞬間。
「ふ!」
ひときわ屈強そうな男が、右正拳突きを繰り出してきた。いい突きではあるが、実に動作がわかりやすい。腰から肩、腕へと力が伝わっているのが、すべて見える。
僕は身をひるがえし、左手で相手の拳をつかむと同時に、思い切り引いた。そしてその反作用を利用した体さばきで、男の懐に入り拳を避ける。
「な!?」
驚愕の表情を浮かべる黒スーツ。気付いたところでもう遅い。僕は身体の勢いはそのままに、相手の開いた足と足の間に右足を踏み込み、同時に体重を乗せた、至近距離からの右肘鉄を相手の鳩尾に叩き込んだ。
「ぐ、お」
相手が身体をくの字に曲げ、膝をつく。信じられない、という顔だ。そうだろうともさ。
なめてかかっていたガキ一人に、自分が動けないほどのダメージを食らうなど、想像だにしなかっただろう。
「なめんなよ、と」
倒れ伏した男の許。僕は挑発を込めて、口の端を釣りあげながら、リーダー格の男を睨みつける。この程度のやつらなら、問題はなさそうだ。
「そら、どうしたよ。かかってきなよ、お兄さん達」
「ふ……くっくっく、なるほど」
リーダー格の男が、さも楽しいと言いたげに、蛇のような細い目でこちらを睨み返す。
「多少は腕に覚えがあるわけだ。伊達に夜の街で働いちゃいない、か?」
「育ちが悪いだけですよ。さぁ、さっさと出て行ってもらいましょうか」
「悪いがお兄さん達も仕事でね……ガキ一人にビビって帰りました、じゃあいろいろ不都合が出てくるんだよ、おぼっちゃん」
リーダー格の男は、一瞬、勝利を確信したかのように瞼を落とし、笑みをこぼした。
その時。
「がっ!?」
強烈な衝撃が、僕の後頭部を襲う。同時に背後で、ビンの割れる音。
倒れこみながらも後ろを振り返ると、別の黒スーツ──スキンヘッドだった──が割れた酒瓶を手にしていた。しまった。話に夢中になって、後ろを取られるなど、不覚にもほどがある。
なまったもんだな……ここ一カ月ばかりの、ぬるま湯のような生活が原因か。
そのまま僕は、『浪漫』の床に、横向きに倒れ伏す。頭がずきずきと痛い。結構、出血もしているらしい。床に流れ出た血が広がる。
「意気込んでるガキは嫌いじゃないけどな。オイタをしたら、お仕置きが待ってんだよ。坊主」
男の癇に障る声が遠い。ちょっとまずいな、これは。
なんとか身を起そうと、両腕と背筋に鞭を打つ。なんとか上半身だけを起こすことには成功。さて、ここからどうする……?
そんな、数秒にも満たない思考を展開していた時。ふと頭の上に、何かがよぎった。
「え?」
そのつぶやきは誰のものだったのか、それはわからない。なぜならそれは、その場にいた人間すべてが同じ感想を持っていたからだ。
その時僕の頭上、いやさ態勢からすると背中の上を通り過ぎていったのは、屈強な身体を、黒いスーツで包んだもの。つい先ほど、僕を酒瓶でなぐりつけたスキンヘッドの男だった。
「ほへ?」
間の抜けた、口から空気の漏れたような声は、その男が発したものだったのだろう。誰より、彼自信が理解できていなかったらしい。自分が重力を振り切って、滑空飛行しているという事実を。
そのままスキンヘッドは、『浪漫』入口に激突。ドアを突き破り、外へと投げ出された。
「てめーらよお……」
殺気。これまでにも、僕は何度か人が人を殺す場面を目撃している。だが、これほどまでに強い殺気、いや、それ以上の何かを噴出している人間を見るのは、さすがに初めてだった。
「うちの従業員に上等こいといて、明日のお天道様無事に拝めると思ってんのか!? あぁ!?」
声の主の方へと、視線を向ける。そこにいるのは、伝統装束のよく似合う、黒髪の美女。ただし、その髪はいかなる理屈か逆立ち、まさに怒髪天を衝くを地で行っていた。『浪漫』の店主にして僕の雇い主、涼子さんである。
作品名:人情日常大活劇『浪漫』 作家名:壱の人