人情日常大活劇『浪漫』
そうして僕は、ひたすらに車を転がし続ける。雲が月を隠す曇天の夜空の下、車は走り続けた。
深夜。草木も眠る丑三つ時。
僕は郊外の一角に盗んだトラックを停め、野菜を換金、つまりは売り払う手続きがあるという影朗さんと別れた。そして夜の街を練り歩き、『浪漫』へと無事帰還を果たした。
今日も今日とて、恐ろしく長い一日だったな……。
蓮さんの仕事もきつかったが、精神的疲労の多さでは、今日の方が勝る。とにかく、風呂に入ってぐっすり眠ろう。そう思って風呂場のドアを開いた。
余談だが、『浪漫』の風呂は一つしかない。薪で焚くタイプの風呂だし、広くもないので、住民のうち誰かが入ってる間はボイラー室に誰かが控え、その誰かが薪を焚く、というルールが、暗黙の了解として存在していた。だが、もう夜も遅い。蓮さんも涼子さんも寝ているだろうから、残り湯で軽く身体を流すだけにしよう、と考え、風呂場へと入って行ったわけなのだが。
僕はその場で凍りついた。
一糸纏わぬ、生まれたままの姿の涼子さんがそこにいたのだから。
「……!」
完全に動けない。どういう状況なのだこれは?
風呂場、脱衣所、ボイラー、裸体の女性、涼子さん、水がしたたる肌、まとまった髪、上気して赤みのさした顔、そこに乱入した僕。
単語ばかりが並んでは消える。いかん、頭真っ白だ。しかし、とりあえず。
「し、失礼しました!」
急速旋回、回れ右。即座に脱衣所を出て行き、後ろ手にドアをぴしゃりと閉めた。そのままドアに背を預け、ずるずると腰を落とす。
び、びっくりした……!
考えてみれば、女性のヌードを見るのは生まれて初めてかもしれない。いろいろとショックだ。
「大和、おかえり」
「は、はい!?」
ドアの内部から声がかかる。涼子さん、驚くほど冷静を保っていらっしゃる。というか、僕のことなどなんとも思っていないのか……?
「す、すいません! 覗くつもりでは……!」
「ああ、いいよ。こんな時間に入ってるなんて、思わなかったんだろう?」
「さ、さいです……」
「ボイラーが少し壊れててね、直してたらこんな時間になったんだ。もうこのまま寝ようかとも思ったけど、汗もかいちゃってね。ひとっ風呂浴びてから寝ようと思ったわけ」
「な、なるほど……」
この会話の間中ずっと、僕の心臓の鼓動は加速を止めることがなかった。薄い扉一つまたいだ先に、全裸の、それもかなり綺麗な女性が着衣をしているのだ。あいにく僕は、そんな中で冷静でいられるほど、人生経験は豊富ではない。衣擦れの音がまた想像力を掻き立てる。
み、身がもたん……。
「今日はお疲れだったね。影朗の仕事はどうだった?」
「い、いえ、別にどうということもないと言いますか……」
「あいつのこったからね、どーせまた犯罪みたいな真似させたんじゃない?」
全く持ってその通りなのだが、多少ごまかしたい事柄ではある。最も、器用なごまかしを見せるには、今の僕は冷静さを欠いている。
「まぁ、その、そんなとこです」
「まったく。ま、あいつも根っこのとこはそんな悪いやるじゃないんだよ。許してやりなって」
「……」
言葉に詰まる。別に今日のことはそこまで気にしてはいないし、むしろどうでもいいと切って捨てたことではあるのだが……。
動揺こそ収まってきたが、何やら心にもやもやが残る。上手く思考がまとまらないので、思ったことを口に出してみることにした。
「涼子さん、影朗さんに甘いんじゃないですか?」
「甘い?」
「そうですよ。ツケを二か月も待ってあげたり、やばめな商売してる人に賄い作ってあげたり……」
口にして、疑念の正体がわかる。この人は、どこか人に甘すぎる。私塾もしかり。蓮さんの時でも似たようなものだった。
そりゃあ、蓮さんはいろいろな事情を持っていた。影朗さんにしても似たようなものかもしれないが、これではいつか、涼子さんに不利益が行ってしまうのではないだろうか。 そんな理不尽さに、どこか憤りを感じていたのかもしれない。
そんなことを考えていると、背もたれが急に消えた。
「え」
背中から割と派手な音が響く。同時に、僕の視線が天井へと移った。
どうやら、背もたれにしていた扉を、涼子さんが開けたらしい。そのまま床に転がる格好となった。
視線の先、つまり僕の頭上では、湯上りらしく、寝巻き姿の涼子さんが立っていた。
「ちょっと、付き合いな」
「はい?」
言うや否や、湯上り姿の涼子さんは、廊下を歩いて行ってしまった。僕も慌てて後を追う。
着いた先は、涼子さんの私室。涼子さんがいたのは、私塾に使った八畳ほどの畳部屋を超えた、硝子窓の向こう側。ベランダ部分だった。
人差し指を振って招く涼子さんの元に歩みよる。窓枠を通り抜け、夜空の下に出る。
見事な満天の星空だった。月が煌々と照っている。風呂での騒動の間に、どんよりと空を支配していた雲は、どこかに行ってしまったらしい。
「飲むか?」
そう言いながら涼子さんが差し出してきたのは、麦酒。安価でアルコール分も低く、喉を潤すのには最適の酒だ。
「はぁ、じゃあいただきます」
言いながら、ガラスコップに口をつける。口の中全体に香ばしい麦の風味と苦みが広がり、喉を焼くように食道を酒が流れる感覚が心地よい。ありていに言って、美味だった。
ランプの消えた、黒で統一された街並みと、空に輝く月と星。酒の肴としては、文句のない逸品だ。
「蓮の過去、聞いたか?」
「……ええ、まぁ」
ほんの数日前のことだし、少し頭から離れてはいた。けれど、言われれば鮮明に思い出せる。流石に忘れられることではない。
「今この国は、あんなやつばっかりさ。どの時代でも人が苦しまなかった時なんてなかったんだろうけど、それでも今はひどい」
「……」
それは、よく知ってることだ。よく知り過ぎるほどに。
涼子さんは、麦酒の入ったガラスコップを傾ける。美麗な酒が、湯上りで火照った美女の口に注ぎこまれる絵。それはどこか、浮世離れしたような映像だった。
「影朗だって似たようなもんさ。あいつもあいつで、それなりの目には遭ってきてる。酒を呷らなきゃ、やってられないような目にな。あいつらに限りゃしない。この街でたむろってるやつらはだいたい同じさ。戦争やらエネルギー不足やら。混乱の時代の、割を食った連中なのさ」
彼女は、どこか憂いを込めたような、諦観したような表情の元、淡々と語っていた。どうやらかなり本気の話のようである。僕は耳と心を澄まし、一言一句聞きもらすまいとしていた。
「私塾の子供達も、ですか」
「そう。あいつらはここらで生まれて、ろくに教育も受けられないガキどもだからね。苦しい時代に生まれたヤツらは、一番苦しい人生を余儀なくされる。それでも生きなきゃいけないんだよ。一度生まれて、生きることを望んでいる以上はね」
生きることを、望んでいる。
それは。たぶん、どんなことよりも。
絶望に値することなのだろうな。
「そんなやつらにゃ、やっぱり手助けが要るんだよ。ほんの少しでもね。飯を奢ってやったり、本の読み方を教えてやったり。人一人にできることなんて、たかが知れてるんだけどさ」
「涼子さんは」
「うん?」
作品名:人情日常大活劇『浪漫』 作家名:壱の人