人情日常大活劇『浪漫』
言われた通り、二階の涼子さんの部屋に向かう。そう言えば、涼子さんの部屋に入るのは初めてだな。
『浪漫』店内からカウンターの裏へ。きしむ階段と廊下を抜け、ふすまを開ける。そこは、八畳ほどの広さを持つ、畳敷きの部屋だった。畳の先には身長大のガラス窓。その先はベランダか。
畳にはいくつか長机がおかれ、最奥には黒板が設置してある。私物の類は片づけてあるらしい。
子供達はめいめい、その机の上に筆記用具を載せている。どうやら黒板で授業をし、子供たちがそれを写し取る、という形式らしい。
「大和。鉛筆、子供達に配ってくれ」
「はい」
言われるがまま、きゃっきゃと騒ぎ続ける子供に鉛筆を配って行く僕。その間やたらと子供達が僕にひっついてきたが(「お兄ちゃん、せんせいのぶかなの?」「ぶかってなさけねーんだぜ、いっつもぺこぺこしてるやつ」「父ちゃんもぶかなんだってー」等々)出来る限りの作り笑顔でごまかす。
子供ってのは、どうも苦手だ。
「ほらほら、授業始めるぞー」
「「「はーい」」」
いい返事が部屋に響いた。涼子さんが黒板の前に立ち、授業開始を知らせると、それまで遊んでいた子供達はそれぞれの席へと向かう。どうやら涼子さん、かなり慕われているらしいな。
「われわれは退散しますか」
「そうですね」
これ以上、特にここに居続ける理由もない。僕と影朗さんは『浪漫』の一階、店部分に戻った。
数時間後。今日の仕込みを一通り終わらせ、一息ついていたころ。涼子さんの授業が終わったのか、子供特有の甲高い声で「ありがとうございましたー」という、儀礼的なあいさつが二階から聞こえてきた。続けて、子供達が階段を下りてくる。
「せんせいさよならー」
「また来週ねー」
「お兄ちゃんもばいばーい」
こちらに手をふりながら、走って帰って行く子供たち。中には転ぶ子もいたが、すぐに起きあがって集団に追い付く。元気があり余っているらしいな。
「おう、気ぃつけて帰れよー」
涼子さんは、にこやかに子供達を見送っていた。なんというか、本当に優しい先生という感じだ。この人、時代が時代なら、専任の教師にでもなっていたのかもしれない。
「おう大和。仕込みは終わったか?」
「ええ、一通り」
「うっし。んじゃ今日の営業、始めるか」
そう言って暖簾を取り出す涼子さんは、いつも通りだった。
いや、いつもより少し明るい顔をしている気もするな。
とにかく、こうして今日も『浪漫』の営業は始まる。宴を求めてさまよう社会への奉仕者達に、浮世の鬱憤を忘れさせる時間を提供するのだった。
* * *
数日が経って、『浪漫』の休業日。それも、今回は月に一度の二連休である。普段は労働者達への奉仕に忙しいこの場所も、たまには休息を必要とするわけだ。
だが、懐が寒いことこの上ない僕に、休息なんぞを取っている暇はない。わずかでも財布を分厚くさせねば。そういうわけで、本日僕は約束通り、影朗さんの仕事を手伝うことになっていた。
事前に涼子さんには一応報告しておいたのだが、微妙な反応(「ふーん……まぁいいんじゃない?」)をされただけで終わった。彼女は、今夜僕がすることになる仕事を知っているのだろうか?
ってなことをつらつらと回想していると、見慣れたスーツに似合わない帽子をかぶった、三十代の中年が現われた。
「お待ちどう様です」
「いえ、僕も今来たところなんで」
おっさんを相手に逢引きのような言葉を使いたくはないが、事実ほとんど待っていないのだからしょうがない。
ここは繁華街、『浪漫』からの最寄り駅。時刻は夕方から少し夜にかかったころ。街にはぼちぼち火が灯りはじめる。夕焼けが雲で隠れて見えない空の下で、たくさんの雑踏がひしめく中、僕らは合流した。
「では行きましょうか」
「はい。それで、目的地は?」
「それは行っての」
「ああはいわかりました行きましょう」
僕はそこまで賢い人間ではないかもしれないが、同じ愚を二度繰り返すほどにおろかでもないつもりだ。先制攻撃は必勝の要である。
そして例によってというか、まぁほぼ予想通り、僕らは汽車に乗って校外へと出発した。
「あの、影朗さん」
「声はもう少し小さめに。なんです?」
「ここ、畑ですよね。民営の」
「左様。野菜が実によく育っております」
「畑って、今は結構重要ですよね」
「海外からの輸入も途絶えてますからな。食料自給には欠かせないでしょうな」
「影朗さんの所有する畑ってわけじゃあないんですよね」
「もちろん。こんなもの持っていたら、ツケなど溜めませぬ」
「じゃあ僕らが今やってることってなんですか?」
「収穫の手伝いですな」
「農家の人に無断で?」
「事後承諾というやつです。まぁ承諾するのははるか先……私の人生が終わった後かもしれませぬが」
「ただの泥棒でしょうが!」
思わず立ち上がった僕。「あ」気付いた時にはもう遅い。
「な……大和少年! 何をやってるのです!」
タイムラグはほとんどなかっただろう。だだっ広い畑に、サイレンの音が響きわたる。同時に、おそらくはかなり高価であろう照明器具の類が輝いた。よくこれだけのエネルギーがあるものだな、自家発電か?
「いたぞー! こっちだー!」
「二人組だ!」
「このやろう! 丹精して育てた野菜を盗るたぁ、いい度胸だ!」
「警察なんざ生ぬるい! 直々に地獄を見せてやらあああああああ!」
恐らくは農家の人達だろう。手には提灯と農具を持ち、肉食獣もなくやという瞳を輝かせている。その視線の先には、真っ黒な装束に身を包んだ二人の盗人の姿があった。まぁ、僕と影朗さんのことなのだが。
「逃げますぞ! 収穫した野菜は持って!」
「なんでこうなるの!」
「それがこの稼業です! ハイリスクハイリターンというやつですな!」
「そんなリスクは嫌だ! リターンも嫌だ!」
そうして遁走を開始する僕ら。背中にはかごいっぱいの野菜を詰めたまま、とにかく走る走る。
本当に、どうしてこうなったというのか……。
影朗さんに連れられてきたのは、都心から少し離れた農業地帯。昔はこの程度の距離でここまで田舎になるということはなかったのだろうが、資源の尽きた現在では話が別だ。経済も停滞し、海外から食料輸入が難関になった時、この国の人は食料自給を上げることを選んだ。その結果、やたらと第一次産業に従事する人が増えたのだ。
で、ここもそんな増えた農家の一つだったわけなんだけど……真夜中に、こんな灯りの一つもないような場所に来た時点で、悪い予感はしていた。
駅に到着早々、影朗さんに渡されたのは黒い服。それも、顔まで包めるような、完璧に全身を覆うタイプのっ黒子服だった。
袖を通すと、闇夜の中では簡単には見破れないほどだったのだ。ましてや灯りもないような田舎。視認することすら困難だろう。
訝しみながら、同じ恰好の影朗さんに連れられていくままに“仕事場”に到着した。すると、この騒ぎになったわけである。
割のいい仕事? 報酬はきっちり用意? ただの畑泥棒じゃねえか!
そういう突っ込みを今入れても意味がない。今はひたすら逃げ続ける時だ。そうでなければ、後の人生が終わってしまう。
作品名:人情日常大活劇『浪漫』 作家名:壱の人