人情日常大活劇『浪漫』
太陽が地平線に沈み始めるような時間になり、その日の仕事はようやく終わりを告げる。
あちこちから激励の言葉が飛び交っていた。皆、充実感に満ちた顔をしている。
「……ぷはあ」
僕はと言えば、蓮さんの言葉が耳に届くや否や、どっと湧いた疲労感から、思わずそこに座りこんでいた。それなりに体力には自信があったというのに、きつい一日だった。映画ってのは、ある意味体力勝負らしい。
「大和もお疲れ! よくがんばってくれたね、ありがと!」
そう言って、蓮さんは携帯式のコップを差し出してきた。僕は頷きつつ受け取り、口をつける。
「? 蓮さん、これって」
「そ、砂糖水。とりあえずのお礼よ。ああ、報酬はちゃんと用意するから、心配しないで」
エネルギーも不足し、工場などもなくなりつつある昨今である。砂糖を溶かした水など、結構な高級品のはずだ。
「いいんですか? こんな高いもの」
「いーっていーって。それよかどうだった? 撮影現場ってやつは」
「なんか、すごい圧倒されましたよ。皆すごい真剣で。っていうか蓮さん、あんま真面目にもなれるんですね」
「なんかひっかかるなー、まぁいいや。そんじゃ大和、帰ろうか」
「はい」
そう言って僕は立ちあがり、蓮さんと歩き始めた。公園の木々が、夕焼けに照らされ、深緑と深紅のコントラストを映しだしていた。
夕闇が街を飲みこみ始める。あちらこちらに設置されたランプに照らされた人々は、一日の疲れをほぐすべく、夜の街へと繰り出し始めていた。『浪漫』は本日休業だが、街には他にも酒場は多い。彼らが行く場所を失くしてさまよい歩くということはないだろう。
「どう、大和。どっかで飲んでく? たまにはおごったげるわよ」
「遠慮しときますよ」
よほど機嫌がいいのか、普段とは真逆の蓮さんである。だが、ここでその誘いにのるには、僕の本能が悲鳴を上げ過ぎている。正直、後が怖い。
「付き合い悪いわねー、まぁいいわ。んじゃ、普通に飯食べてこ。そんならいいっしょ?」
「はぁ、まぁそれなら」
話がまとまった、とばかりに蓮さんは適当な店を見つけ、半ば無理やり僕を連れ込む。特に変わったところもない定食屋だ。明るめに設定された店内では、店員があわただしく動き回り、家族連れや仕事帰りの人間が各々食事を摂っていた。
僕と蓮さんは適当なカウンター席に陣取り、メニューを一通り吟味する。
「おっちゃん、あたしは日替わり定食ね。大和は?」
「僕もそれで」
「あいよー」
愛想のよい、やや小太りの店員 恐らくは店長だろう が木製のカウンターの中で「日替わり二丁―」と、注文を繰り返す。これで店員が作り始めるシステムらしい。
注文を待つ間、僕らの間には若干の沈黙が訪れた。店内のにぎやかさが疲れた身体に心地よく、耳に残響を残す。
「大和、明日っからはやっぱ無理?」
蓮さんが沈黙を破り、問いかけてくる。明日っから、というのは……。
「明日も、撮影の仕事をってことですか?」
「そ。大体段取りは今日と同じなんだけど、どうかな」
「『浪漫』の方の仕事もありますから、今日と同じだと、流石に」
「そっかー、まぁそうだよね」
納得はしたようだが、蓮さんはどこか残念そうでもあった。正直、今日の仕事で僕がそれほど役立てたとは思っていなかったので、若干意外である。
「そんなに人手が必要なんですか? 今日も、別に僕がいなくてもよさそうでしたけど」
「そう見えた? そうでもないんだよ。実際、今日のスタッフだって一人何役もやってくれてるし。役者もスタッフも、結構ぎりぎりなんだよ。予算もそんなないし」
「そう言えば、予算ってどこから出てるです?」
「自腹だよ。一昨日あんたに手伝ってもらった仕事も資金源。映画なんてもともと費用がかかってかかってしかたないってのに、今はエネルギーやら機材やら、ホントもう金食い虫もいいところなのさ」
「よくスタッフが雇えますね」
「あいつらは、皆あたしの友達。ほとんどボランティアだよ。新しく人材を雇う余裕なんて、ほとんどないのさ」
それで僕というわけだ。自分の身近にいて、力仕事をこなす男手。給料もそこまで必要ではないし、ちょうどよい相手だったわけだ。
「……蓮さんは、なんでそこまでして映画を摂るんですか?」
僕は、かねてからの疑念を口に出した。
瞬間。
ほんの一瞬ではあったが、蓮さんの目から光彩が消え失せたのを、僕は確かに見た。
「あ……」
しまった、と思った時にはもういつもの笑顔に戻っていた。けれど、心の深くに、質問というナイフをえぐりこませてしまったことには、流石の僕でも気付く。
「……ま、ここまで手伝ってもらったんだしね。そりゃ理由ぐらいは知りたいか」
「いや、すいません、別に無理して聞くつもりじゃ」
「いーって。別にそんな深い話なわけでもないし。ま、ちょいと愚痴っぽくなっちゃうんだけど、いいかい?」
「そりゃ、まぁ」
是非もないことだ。先に聞いたのは僕である。
「あたしさー、十三んときに、父親にレイプされたの」
……なに?
「流石にショックっしょ。あたしの父親、故郷じゃそれなりに資産家で、地位とか名誉とかもあって、反抗期思春期の真っただ中でも、それなりに信頼と尊敬を持ってたってーのに、いきなりだもん。もう何がなんだかわかんなかった」
「……」
蓮さんは、淡々と話す。その顔は絶望に他人に理解させようと歪みきっているわけでも、憎悪を他人に押し付けるべく醜悪なわけでもなかった。
店内は相変わらず喧騒であふれている。所々に笑顔の華が咲いていた。
「ま、要するにあたしの親父は娘に欲情する変態で、外で溜めた鬱憤を晴らそうって思ったんだろうさ。母親は死んでていなかったし、他に相手がいなかったんだろうね」
「……」
ただ、僕らの間は静まり返っていた。まるでこの二つの席だけが、世界から切り離されているかのような感覚。僕は、息を飲むことさえ忘れていた。
「今思えば、戦争からの復興で親父めっちゃ忙しそうだったしね、仕方なかったのかもしれない。けど、あたしはすんげーショックで、口もきけなくなってた。次第に親父はそれだけで満足できなくなってさ、知り合いも家に読んで、みんなであたしを輪姦してきた。相手も親父くらいのおっさんが多くて、なんか妙に太ってるやつとか貫禄あるやつもいたから、たぶん親父の仕事相手だったんだろうね。接待も兼ねてたのかな」
おまちー、と僕らの前に料理が置かれた。白米からは湯気が立ち、汁物とおかずの心地よい香りが鼻腔をくすぐる。だが、それに手をつけられはしない。
ランプに照らされた蓮さんの横顔は、いつも通りだった。いつも通り過ぎるほどに。
「もうほとんど毎日輪(ま)姦(わ)されて、後の時間は部屋にこもってた。学校も行けなくてさ、ずーっと部屋にいたの。もうどーでもよくなってたんだと思う。何かを感じるってことがなくなってたんだ。でも、そんなとき、部屋の隅にあった機材を見つけたの。親父が昔趣味で集めてた、映像ディスクだった。あたしは、なんとはなしにそれを映したの」
作品名:人情日常大活劇『浪漫』 作家名:壱の人