幕末・紀州藩下級武士の妻 升屋のをちえ一代記
幕末・紀州藩下級武士の妻
升屋のをちえ一代記
佐武 寛
一
をちえは、江戸の生まれで商家育ちである。紀州藩邸青山御殿に小兵衛が詰めていた時の御用達・枡屋治平の娘で、貞輔と同い年生まれであったことから、小兵衛と治平は共に子供の誕生日を祝いあった。時は寛政九年(1797)十月晦日のことでその日、藩から納品代金を御殿で受け取った治平が、
「今宵は拙宅にお越し下されまいか。小兵衛殿が紀州にお発ちになる前に、御子息と娘・をちえの出生祝いに一献差し上げたいと願っております」
と、誘ったのを小兵衛は快く承諾したという。貞輔出生は父・小兵衛が藩主・治宝様に初御目見をしたこの年二月十六日から二日後の十八日であった。小兵衛は三月五日には紀州を江戸に向けて出立しているから貞輔の出生祝いを済ませていない。このことを治平は小兵衛から聞いていてこの日の誘いとなったのである。
「お武家様はお勤め第一で家族のことは構っておれないでしょうからお気の毒ですな。出生お祝いは紀州に立ち返られてからなさることでしょうが、をちえが食べ初めになりましたので、御子息の膳もしつらえて、ご一緒にお祝いさせていただきましょう。お祝いの品もご用意させていただきました。お国にお持ち帰りくださって奥方様にも宜しくお伝えください」
と、それは念の入った挨拶であった。
文化九年(1812)正月十三日小兵衛が表御右筆を仰せ付けられ、御足米二十石を下し置かれる。この時、治平はをちえを連れて和歌山の小兵衛の役宅までお祝いに参上している。当時、をちえは十五歳で貞輔とは初対面であったが、親同士が親しく話している雰囲気に引き込まれて、をちえから貞輔に話しかけたという。これをきっかけに、をちえと貞輔の間にふみのやり取りが始まったのである。小兵衛が貞輔にをちえを娶らせる決断をしたのはそうしたことを踏まえたものであった。
貞輔は文化十三年(1816)三月二十六日父・小兵衛に召連れられ大殿様方奥御右筆部屋に罷り出、御用の留・控等を相勤めることになった。父親・小兵衛の配慮がにじみ出ている。五十二歳になった小兵衛が跡目相続の段取りに入ったことをうかがわせるものであった。
この二年後の文化十五年(1818)正月十三日小兵衛は御留守居番を仰せ付けられ、御足米五石御加増(都合二五石)、御切米十五石を下し置かれた。この年の四月二十二日文政と改元される。
をちえは付家老・安藤直裕様の養女として、この年の五月朔日、江戸青山の小兵衛役宅で、貞輔と婚礼の式を挙げた。披露宴は枡屋の本宅に移って親族紹介から始まったが、その係累のきらびやかさに小兵衛は圧倒され気味であった。
をちえは二十一歳の花盛りで目がまぶしいくらいに美しく見えた。紀州の侍仲間では得られない良縁だと小兵衛は内心満足していた。江戸詰の果報だと思い、息子・貞輔の将来がこれで一段と開けると感慨無量だった。
枡屋治平の兄弟四人は、それぞれ札差、物産問屋、廻船問屋、問屋場を営んでる。それぞれの子女には武家の養子や嫁になっている者も居て、武家社会のことにも詳しい。小兵衛はこの人脈を貞輔のために残せることを願った。武家と商家の立場の違いや考え方の違いがあっても、親戚付き合いの仲では解り合えることがあると小兵衛は思い、垣根を越えた積極的な付き合いをしたいと言った。をちえがそれをしかと聞いていた。
貞輔は文政十年(1827)七月二十日実父・小兵衛跡目相続、切米十石を下し置かれ、小十人小普請を仰せ付けられる。これが吉田家の家格であろう。亡父・小兵衛は切米十五石をいただいたがこれは死没によって差し上げている。足米は役職手当であるから当然に消滅。下級武士の生活はこの繰り返しで連綿と続くのである。尤も、事と次第によっては減俸される。
貞輔の家計を潤したのはをちえの実家・枡屋からの仕送りである。をちえが吉田家に嫁ぐに当たって父・治平はをちえ存命中は化粧料を差し上げると小兵衛に約束している。自分亡き後も違わぬようにと惣領と連名で約定書を差し出しているのである。
「貞輔様に存分のお働きをしていただくためにはお台所が不如意であってはなりませぬ。私どもに出来ますことは何なりといたします故ご遠慮なくお申し付けください」
とも治平は言っている。藩御用達商人として武家の内情に詳しい治平は遠慮がない。小兵衛とは昵懇の間柄であることが手伝っても居るが、をちえ可愛いという思いがそういわせるのである。
大藩の下士は小藩の上士にも匹敵するし、まして紀州藩は御三家の中でも将軍職を出している家柄である。治平はそれを高く買っている。時は第十代藩主徳川冶宝様の御代で何事も平穏に打ち過ぎ、文化十三年(1816)五月朔日冶宝は従二位大納言に叙任される。だが、七年後の文政六年(1823)、和歌山城下で大規模な農民一揆が勃発し、翌年藩主の座を養子・斎順に譲る。
小兵衛が死没したのはその三年後であるから、冶宝様が藩主相続の二年前に自身が吉田家を相続した小兵衛は実質、冶宝様御代にお勤めしたことになる。小兵衛にとって幸福なことは出仕期間中に藩主交代がなかったことであろう。藩主冶宝様の信頼を得て存分にお勤めに励むことが出来た。それが枡屋治平にも好都合であった。
だが、間もなく襲ってきた天保の改革に治平も貞輔も飲み込まれてゆく。幕政の改革が諸藩にも及び紀州藩でもこれに逆らう動きがある。天保十二年(1841)から始まった株仲間の解散は紀州藩と密接な関係にあった菱垣廻船にも深刻な打撃となった。枡屋にもその累が及び商いに影響する。治平が貞輔を通じて建て直しの画策に走った。江戸での株仲間の解散も痛手であった。枡屋の屋台骨が崩れかねないほどの出費を覚悟して幕府にも紀州藩にも働きかける。御勘定所認物御用を務め手形認方御用筋をも兼務している貞輔に何かと智慧を授けていたのはをちえである。
貞輔は役目柄、商人との接触が多い。紀州と伊勢だけでなく、他国の様子も伝えられる。株仲間の解散で物品流通は混乱している。業界への新規参入者が秩序を乱して困るという苦情が多数寄せられている。手形取引の信用も危うい。貞輔は手形の裏書を丹念に調べて流通経路を掌握する。こうした情報収集があってこそ貞輔のお役目は務まるのである。
をちえはそうした話を貞輔から聞いて実家の枡屋に伝えるだけではなく、自らの知恵を夫の貞輔に話して、貞輔に商人の感覚と才覚をわからせる。
「水野忠邦様の御改革は世情に通じておられないから失敗なさるかもしれませんよ。幕府のお力で諸国を従わせることは最早困難でしょう。イギリス,アメリカ、ロシア,フランスなどの軍艦がやってきて開国を迫っているのですから、幕府はそれに対抗するためには諸国の藩の協力が必要でしょう。立場が逆になっているのです。この機会を利用して鉄砲、大砲、艦船を売り込んでいる商人も居ます。利に聡いのが商人です。お武家のように正義とか忠勤というものに心を縛られていないのですよ」
升屋のをちえ一代記
佐武 寛
一
をちえは、江戸の生まれで商家育ちである。紀州藩邸青山御殿に小兵衛が詰めていた時の御用達・枡屋治平の娘で、貞輔と同い年生まれであったことから、小兵衛と治平は共に子供の誕生日を祝いあった。時は寛政九年(1797)十月晦日のことでその日、藩から納品代金を御殿で受け取った治平が、
「今宵は拙宅にお越し下されまいか。小兵衛殿が紀州にお発ちになる前に、御子息と娘・をちえの出生祝いに一献差し上げたいと願っております」
と、誘ったのを小兵衛は快く承諾したという。貞輔出生は父・小兵衛が藩主・治宝様に初御目見をしたこの年二月十六日から二日後の十八日であった。小兵衛は三月五日には紀州を江戸に向けて出立しているから貞輔の出生祝いを済ませていない。このことを治平は小兵衛から聞いていてこの日の誘いとなったのである。
「お武家様はお勤め第一で家族のことは構っておれないでしょうからお気の毒ですな。出生お祝いは紀州に立ち返られてからなさることでしょうが、をちえが食べ初めになりましたので、御子息の膳もしつらえて、ご一緒にお祝いさせていただきましょう。お祝いの品もご用意させていただきました。お国にお持ち帰りくださって奥方様にも宜しくお伝えください」
と、それは念の入った挨拶であった。
文化九年(1812)正月十三日小兵衛が表御右筆を仰せ付けられ、御足米二十石を下し置かれる。この時、治平はをちえを連れて和歌山の小兵衛の役宅までお祝いに参上している。当時、をちえは十五歳で貞輔とは初対面であったが、親同士が親しく話している雰囲気に引き込まれて、をちえから貞輔に話しかけたという。これをきっかけに、をちえと貞輔の間にふみのやり取りが始まったのである。小兵衛が貞輔にをちえを娶らせる決断をしたのはそうしたことを踏まえたものであった。
貞輔は文化十三年(1816)三月二十六日父・小兵衛に召連れられ大殿様方奥御右筆部屋に罷り出、御用の留・控等を相勤めることになった。父親・小兵衛の配慮がにじみ出ている。五十二歳になった小兵衛が跡目相続の段取りに入ったことをうかがわせるものであった。
この二年後の文化十五年(1818)正月十三日小兵衛は御留守居番を仰せ付けられ、御足米五石御加増(都合二五石)、御切米十五石を下し置かれた。この年の四月二十二日文政と改元される。
をちえは付家老・安藤直裕様の養女として、この年の五月朔日、江戸青山の小兵衛役宅で、貞輔と婚礼の式を挙げた。披露宴は枡屋の本宅に移って親族紹介から始まったが、その係累のきらびやかさに小兵衛は圧倒され気味であった。
をちえは二十一歳の花盛りで目がまぶしいくらいに美しく見えた。紀州の侍仲間では得られない良縁だと小兵衛は内心満足していた。江戸詰の果報だと思い、息子・貞輔の将来がこれで一段と開けると感慨無量だった。
枡屋治平の兄弟四人は、それぞれ札差、物産問屋、廻船問屋、問屋場を営んでる。それぞれの子女には武家の養子や嫁になっている者も居て、武家社会のことにも詳しい。小兵衛はこの人脈を貞輔のために残せることを願った。武家と商家の立場の違いや考え方の違いがあっても、親戚付き合いの仲では解り合えることがあると小兵衛は思い、垣根を越えた積極的な付き合いをしたいと言った。をちえがそれをしかと聞いていた。
貞輔は文政十年(1827)七月二十日実父・小兵衛跡目相続、切米十石を下し置かれ、小十人小普請を仰せ付けられる。これが吉田家の家格であろう。亡父・小兵衛は切米十五石をいただいたがこれは死没によって差し上げている。足米は役職手当であるから当然に消滅。下級武士の生活はこの繰り返しで連綿と続くのである。尤も、事と次第によっては減俸される。
貞輔の家計を潤したのはをちえの実家・枡屋からの仕送りである。をちえが吉田家に嫁ぐに当たって父・治平はをちえ存命中は化粧料を差し上げると小兵衛に約束している。自分亡き後も違わぬようにと惣領と連名で約定書を差し出しているのである。
「貞輔様に存分のお働きをしていただくためにはお台所が不如意であってはなりませぬ。私どもに出来ますことは何なりといたします故ご遠慮なくお申し付けください」
とも治平は言っている。藩御用達商人として武家の内情に詳しい治平は遠慮がない。小兵衛とは昵懇の間柄であることが手伝っても居るが、をちえ可愛いという思いがそういわせるのである。
大藩の下士は小藩の上士にも匹敵するし、まして紀州藩は御三家の中でも将軍職を出している家柄である。治平はそれを高く買っている。時は第十代藩主徳川冶宝様の御代で何事も平穏に打ち過ぎ、文化十三年(1816)五月朔日冶宝は従二位大納言に叙任される。だが、七年後の文政六年(1823)、和歌山城下で大規模な農民一揆が勃発し、翌年藩主の座を養子・斎順に譲る。
小兵衛が死没したのはその三年後であるから、冶宝様が藩主相続の二年前に自身が吉田家を相続した小兵衛は実質、冶宝様御代にお勤めしたことになる。小兵衛にとって幸福なことは出仕期間中に藩主交代がなかったことであろう。藩主冶宝様の信頼を得て存分にお勤めに励むことが出来た。それが枡屋治平にも好都合であった。
だが、間もなく襲ってきた天保の改革に治平も貞輔も飲み込まれてゆく。幕政の改革が諸藩にも及び紀州藩でもこれに逆らう動きがある。天保十二年(1841)から始まった株仲間の解散は紀州藩と密接な関係にあった菱垣廻船にも深刻な打撃となった。枡屋にもその累が及び商いに影響する。治平が貞輔を通じて建て直しの画策に走った。江戸での株仲間の解散も痛手であった。枡屋の屋台骨が崩れかねないほどの出費を覚悟して幕府にも紀州藩にも働きかける。御勘定所認物御用を務め手形認方御用筋をも兼務している貞輔に何かと智慧を授けていたのはをちえである。
貞輔は役目柄、商人との接触が多い。紀州と伊勢だけでなく、他国の様子も伝えられる。株仲間の解散で物品流通は混乱している。業界への新規参入者が秩序を乱して困るという苦情が多数寄せられている。手形取引の信用も危うい。貞輔は手形の裏書を丹念に調べて流通経路を掌握する。こうした情報収集があってこそ貞輔のお役目は務まるのである。
をちえはそうした話を貞輔から聞いて実家の枡屋に伝えるだけではなく、自らの知恵を夫の貞輔に話して、貞輔に商人の感覚と才覚をわからせる。
「水野忠邦様の御改革は世情に通じておられないから失敗なさるかもしれませんよ。幕府のお力で諸国を従わせることは最早困難でしょう。イギリス,アメリカ、ロシア,フランスなどの軍艦がやってきて開国を迫っているのですから、幕府はそれに対抗するためには諸国の藩の協力が必要でしょう。立場が逆になっているのです。この機会を利用して鉄砲、大砲、艦船を売り込んでいる商人も居ます。利に聡いのが商人です。お武家のように正義とか忠勤というものに心を縛られていないのですよ」
作品名:幕末・紀州藩下級武士の妻 升屋のをちえ一代記 作家名:佐武寛