梨華姫
2.花咲ける乙女心(一日前・表その一)
「ああ、今日も温かくて過ごしやすい日…」
ぽけぽけと気の抜けた顔で、怜蘭は侍女に用意してもらったお茶をすする。頭上の枝葉も春の陽射を存分に受けて心地良さそうだ。白い花の幕の隙間から珍しい羽の色の小鳥が花びらをついばんでいるのが見えた。
ゆったりと流れる春の時間を梨の花を見て過ごすのが、最近の恩怜蘭の楽しみである。漂う花の香りが甘いので茶菓子もさほど必要ではなさそうだ、と兄ならば苦笑するだろうがそれはそれ、これはこれ。花を愛でながらお茶を飲み、さらに美味しい点心を味わう。なんて幸せなことなのでしょう。とびきりの贅沢である。
「……あら? あらあらあら」
怜蘭は徐に立ち上がり、裾の長い裙子を引き摺りながら茶会の会場を後にした。
客はいない、主人である怜蘭のみの席である。ゆえに茶会の途中で席を立つのは失礼である、という指摘などは不要だろう。
けれども、「都いちばんの食い意地」と兄にからかわれる彼女にとって、目の前の一級品の茶と、同じく素晴らしく美味な茶菓子を放棄するというのは、異例中の異例。それを通り越して、異常なことでさえあった。
「好奇心は、猫をも殺すとは言うけれど」
心なしかうきうきとした様子の怜蘭は、亭を出ると院子の東端を目指し一直線に歩いていく。散策がしやすいように、と灰色の石で敷かれた道を大きく外れたまま、小川を飛び越え、裾を泥跳ねで汚す。侍女が見たら卒倒しかねない所業だ。
「…さて、此処で素朴な疑問です。『猫の死因は何か』。私としてはやはり第三者の手にかかったと推測するのですが、縊り殺されたのですかね? それとも川に投げ入れたとか?」
声の調子はのんきそのものであるが、その内容はどうしようもないくらいに物騒、かつ病んでいた。そこには彼女自身に邪気も何も存在していないからこそ生まれる、ある種の不気味さがあった。
怜蘭の足はぴたり、と一本の大きな木の下で止まった。
花も見ごろの梨の木ほど派手派手しくはないものの、大樹と言ってもおかしくはない。口元を袖で覆い、上品にくすりと笑んだ。
目線の先に在るのは風に吹かれ、やわらかに揺れる濃緑の葉。
枝の隙間から見える淡く透き通った真昼の空。
「さぁて貴女はどうでしょうね、子猫ちゃん。あふれる好奇心は貴女の身を滅ぼすのかしら」
夢見るようなまなざしで、怜蘭は姿の見えない誰かに語りかけ。
太い幹の陰を、覗き込む。
まるで、其処に何が在るのか、分かっているかのような動作だった。
もちろんそこにいたのは、真っ白でふわふわの毛を持つ猫――ではなく、小さな身体をさらに折りたたんでどうにかやり過ごそうとしていた娘だったわけであるのだが。
「みぃつけた、可愛いお嬢ちゃん」
「……………………っち」
そんな彼女は、見つけられたところで可愛こぶって許しを乞うでもなく、柄の悪い舌うちで対応したのだった。
かちゃり、と茶器を持ち上げる音がやけに大きく聞こえる。これは怜蘭が茶のお代わりを自らの器に注いだために生じたものである。
そして、あからさまに吐かれた溜息。これは、そんな怜蘭に呆れた真昼の侵入者があてつけのように吐いたものであった。
「あら、お気に召さない? お菓子もお茶も私のお気に入りのものなのに。この桃包もなかなかの味で…まあ欲を言うならば桃の形ではなく梨の形にして、中身も梨の果肉などを入れた餡にすれば言うことないのだけれど。ふうむ、今度の梨華宴で振舞う一品として考えてみる価値はあるかもしれないわね……?」
「…何の話よ」
「え? 点心の話ですけれど? もっと言えば桃包の」
「ふ…」
「ふ?」
「ふざけるのも大概にして頂戴っ…何故邸の院子に忍び込んでいた怪しい奴に茶を振舞っているのです? それ以前にこのぬるい会話は何? もっと訊くべきこと、話すべきことは御座いますでしょう!」
苛立ちを隠しきれない眸に宿るのは、赤々と燃える焔の如き光。
(まあ、こんなに愛らしいのに…今にも獰猛な虎に変化して、飛びかかってきそう、ふふ)
目の前で面白いぐらいにかっかしている娘に対しての興味は、いよいよ膨らんできたのだが、しばらくは当たり障りのない態度を取ることを怜蘭は選んだ。「そおですね」とにこにこしながら頷いておく。こういう場合は相手の意見を尊重するのが一番だ。と書物にあった。
「あら子猫ちゃんってば、そんなに私とお喋りがしたかったの? ごめんなさいね、こちらが一方的に話してしまって。いつも兄に叱られるの、人の気持ちを察しなさいって」
彼女の頬が引き攣ったのを見て、怜蘭はおやと思った。
あらら? 私、何か変なことを言ったのかしら。…いえ、心当たりが無いもの。きっとお茶菓子が、ありきたり過ぎるのが原因だったのね。
またどうでもいいことを考え始めた怜蘭を見て、娘は呆れたように額に手をあてがった。こほん、とわざとらしく咳払いをする。
「…あなたが、恩遼李さまの妹さま、怜蘭姫なのでしょう?」
「ん、私のことをご存知なの? お嬢ちゃんってばよほどの情報通なのね」
不思議そうに呟いて、怜蘭はお茶に口をつける。
これくらい当然のことよ、と胸を張る娘。わああすごいわ、と素直に感嘆してみせる怜蘭。一見すれば、年頃の娘さん同士の微笑ましい会話であるが、一方は相手を出し抜いてやろうと必死、一方はその想いに気付いているのかいないのか、のらりくらりと論点をわずかにずらした返事をしている。という、なかなかどうして殺伐としたやりとりがしばらくの間、続いていくのであった。
一向に話が進んでいかないことに痺れを切らしたのは、当然だが娘の方だった。
「―――ところで、近日この邸で宴が催されるとか? 先程も仰っていましたよね」
いささか強引とも言える接続詞の利用により、強引に話題を自分の望む方向へと転換させる。
「…………?」
数拍の間があった。
その「数拍」のうちに娘の眉は幾度となく痙攣し、いよいよ堪えかねて怒鳴りつけてしまいそうになった時に、
「…ああ、梨華宴のこと? ええ、確かに。父さまや兄さまが友人だのなんだのをたくさんお招きするとか、言っていらしたような」
「それよ! わたしがしたいのはそのお話っ」
待ちかねていた返答がもたらされて、思わず叫んでいた。もはや恥も外聞も存在しない。早いところ片をつけてしまいたい、という心理が透けて見える。
もっと正確に言えば「この女とこれ以上関わり合いになりたくない」という想いで彼女は動いているのだが。さすがに読心の才が有るとは言い難い怜蘭が、そこまで詳しく察していようはずがない。
もう面倒だから本題だけを言うわ、よく聞きなさい。と体裁を整えるのも投げ出し始めたらしい彼女は、実にえらそうな口調で言い放った。
「わたし、あなたにそのお兄さまのお友達を、手酷く『振って』もらいたいの」
侵入者(?)の娘から恩怜蘭がよく分からない『お願い』をされたのは、ぴるると小鳥の囀る昼下がりのことだった。