梨華姫
3.遥家にて、早朝(一日前・裏)
たたた、と軽やかな足音が廊下に響いている。まどろみ、思考の停止しかけた頭で、檸爍は思い出す。確か此処は国でも一、ニを争う名門貴族の邸であったはず。使用人ならば誰も彼もが、しずしずと気配を絶つかのように歩く。そのような作法を仕付けられているが故だ。
従ってそこから導き出される結論は明明白白であった。自室の前でぴたりと止まった足音に、檸爍は来るぞ、と身構える。
「ねっいしゃくさま! お帰りなさいませ、わたしずっとずっとず~っとお帰りをお待ちしておりましたの~っ」
がらっと、勢い良く開かれた戸。入室の許可も得ずに飛び込んできた人物は、制止する猶予さえ与えずに半身を起した檸爍に抱きついてきた。あー、といかにも億劫そうに「玉瑞」と彼女の名前を呼びながら、密着していた身体をぺりぺりと剥がし。
「……元気そうで何より」
と気のない言葉を吐いた。特攻をかけられたことにより、どっと疲れが増したのは紛れもない事実であったが、それを逐一指摘するほど檸爍は大人げなくない。もっと言えば、親愛の情であれ何であれ、好意を持ってくれている娘に対して、つれなく出来るような男ではないのだった。たとえ、二日酔いで頭が割れるような痛みに苦しんでいようとも。
「龍にぃが、昨夜檸爍さまがこちらにお泊りになったと教えてくれて」
(兄上…恨みます)
檸爍がまあまあまあと、同僚である恩遼李に連れ込まれた酒楼から這う這うの体で退散した頃には、夜更けと言っても強ち間違いではないような時刻ではあった。それなのに、普段自分が暮らしている分家筋の邸ではなく、こちらの方に自然と足が向いてしまったのは昼に交わした言葉が記憶にまだ、鮮明に残っていたからであろう。
しかし宿直の使用人たちに混じって天九牌に興じていた、長兄、円龍を目にした時には驚いた。忙しい身であるはずなのに、一体いつ寝ているのだろう。
『お前に人のことは言えない』
そんな疑問はごもっともなお言葉で跳ね返されてしまった。その後、玉瑞の起きた頃合いを見計らって部屋を訪ねた、というのが大体の流れだろう。体調も頭の回転具合も芳しくはないが、一応は把握した。
何にせよ円龍も、雅狼も妹には甘い。玉瑞が喜ぶのであればいかなることも躊躇うことなくやってのけるという種類の人間だ。それが度を越している時もしばしばあるが文句は言えまい。
彼らにはその能力が有り、資格がある。
彼女の兄としての素地が。
「…檸爍さま?」
気遣うように見上げてくる玉瑞の額を軽くはたいた。
「その他人行儀な呼び方はやめないか」
「嫌です」
即答だった。考えるまでもない、というところなのだろう。
幾度となく繰り返した議論であるが、そろそろ決着をつけても良い時期だとも思う。
十六年もの間、互いのことを知らずに育ったきょうだい。そんなものは、確かに『他人』にも等しい存在なのかもしれないのだけれど。
「一応訊くが、理由は?」
「え、檸爍さまったらそんなにお兄さまと呼ばれたいのですか? もう、仕方ないですねぇ」
「違う…頼むから人を変な性癖でもあるかのように扱わないでくれ」
「その方が好都合ですのに」
何か言ったか、と問えば満面の笑みで以て答えた。相変わらず食えない奴である。どうして、深く関わり合いになりたくない輩の見本市みたいなのが、退屈を絵に描いたような自分の周りで日々繰り広げられているのか。
檸爍の悩みは底が知れなかった。
「双子なのだから別に上も下も斜めもないだろう。別に変にかしこまる必要はないと思うのだが。第一、俺もお前のことを玉瑞と呼んでしまっている」
「むしろそこは望むところなので変えないでくださいね。急に呼び方を改めるようなことがあればわたしは舌を噛んで自害します」
それは大げさすぎやしないか。喉元まで出かかった言の葉は、玉瑞の眸を見た時には消え失せていた。
「『他人行儀』、そうかもしれません。でもこれは最後の砦なので」
「『砦』?」
「堅固な城塞ですので、容易く突破できると思ったら大間違いです」
ずずい、と玉瑞はさらに檸爍に身を寄せてきた。婀娜っぽく、縋るように。耳元で囁かれているわけでもないのに、籠ったような、だけど確かに伝わる声の色。
「わたしは、貴方のことを『兄』と思ったことはありませんし、これからも認めるつもりはありません」
酷い言い様だった。冷たく突き放すようでありながらその調子は緩やかで、響きは甘く。
「檸爍さま」。一切こちらの要求など聞くに値しないとでも言うかのように。不遜に大胆に狡猾に。すう、と静かに唇が持ち上がり笑みを形作った。
「だいすきです」
純真無垢なはずの微笑は、ひどく歪んでいた。
「梨華姫、ですか」
檸爍が残りの事務処理を片づけに出仕した後。
雅狼が最愛の妹にこんな話をしたのは、家出騒動の一件以来、外出を禁止されている彼女に、「よしよし世の中のことに疎くなってしまいうのは可哀そうだから、仕入れた噂話でも披露してやろうじゃないか」などという親切心からではない。無論、檸爍相手に講釈をたれたかったのに、何だかんだで流されてしまったのが不満だった為でもなかった。と、少なくとも本人だけは否定している。
深い意味もなく、思いついた話の種を蒔き、水を遣っただけ。
単なる気まぐれというやつである。けれども、この気の迷いが事態をややこしくする、なんて現象は古今東西どんな所にでも転がっていることであった。
「ああ、何でもとんでもない美女だって評判でな。それなのに今まで誰もその娘を見たことがないってなもんだから、阿呆な男共が騒いでてよ。今度の梨華宴で、その姫を見てやろうと意気込んでやがるのさ」
「へえ、そうなのですか。…芙蓉や百合、睡蓮など美しい花なんていくらでもあるのに『梨』なんて。高が知れます」
至極どうでもよさそうに――実際興味が無いのだろう――玉瑞は言った。
この程度の毒は玉瑞にとっては標準装備なのだが、たいがいの者は強気すぎる物言いにぎょっとするようだった。しかし、慣れて来れば彼女の発言に異を唱えることが、果たして自分には出来るだろうかと悩むことになるわけだ。
艶やかな花の刺繍が施された衣装に彩られた華奢な体躯。今はくるりと真珠の髪飾りで纏め上げられているが、鴉の濡羽色と形容するにふさわしい艶やかな黒髪は細く、さながら絹糸のよう。
遥玉瑞という娘は、眸こそ勝気な印象を与えているが、貴族の姫君として申し分ない美しさと気品とを兼ね備えているのだった。
「ま、今度の宴は梨華姫を嫁にやる相手の検分だっていう話もあるくらいだ。嘘か本当かは分からんが。しっかし、檸爍もあれで意外と…はん。さすがは遥家の男、僕の弟なだけある」
ぴくり、と。ある単語を耳にした途端に玉瑞の眉が跳ねあがる。
「ろろ、狼にぃ! それは、いったい、どういう、意味なの、ですか!」
些か分かりやす過ぎる反応だった。きしし、と妹の狼狽具合を嘲るかのような笑い声を上げる兄。ちなみに、これはありふれた遥家のきょうだい間のやりとりであり、兄の妹に対する愛情はそれこそ海よりも深いと表現してもあながち誤りとは言えない。
ただ、可愛がり方がなんだか、間違っていただけで。
「ふふん…知りたい?」
しきりに首を縦に振る玉瑞を見て、口の端が満足げにつり上がった。