双星恋歌
その言葉を言いに来るのにどれだけ時間を要したことだろう。檸爍は凝った肩を揉みほぐしながら廊下を歩いていた。本家ともなるとやはり屋敷の規模が違う。何が違うって、兎にも角にも敷地面積だ。此処は彼が養父母や義姉たちと暮らす分家の数倍の広さがあり、母屋の端から端まで移動するのに何度か迷いかけた。その過程で、なんだかわからないうちに女人の部屋の戸を開けてしまい、檸爍は実に居た堪れない想いをした。このような出来事は二度と起こらないように祈る。そして、願わくは彼女と顔を合わせないでいられんことを、だ。
正月ということで、当主である遂良様の元には国中から遥家の分家筋である人間が挨拶に訪れる。檸爍は中央六部に勤める官吏であるから、本家のあるのと同じ瑛杏の都住まい。訪問も難しくはないが、瑛杏の北方にある豪雪地帯に居を構える分家は毎年かなり行き帰りに苦労するらしい。
しかし当主への挨拶だなんていう家を代表するような仕事は今まで、同じく中央で働いている養父の仕事であった。それなのに、急に「今年はお前が行って来い」とは。なんだか作為めいたものを感じてしまう。
だが、「妙なことがあるものだ。どうも腑に落ちない」とは思うものの、もうひとつ先まで考えが及ばず、まさか貰い子である自分が家を継ぐことを期待されているとは考えもしない檸爍である。生真面目な性格と、そういうちょっと抜けているところが合わさったところが彼の魅力であるのだとしばしば友人は語る。
「…って、思った矢先に……」
「なっ、んで…貴方が此方に?」
何度か廊下を行き交う使用人たちに道を訪ねながら、遂良の室の前までようやく辿りついたかと思えば。檸爍はばったりと、互いに永遠のように思える(あまりの気まずさに)数拍を共に過ごした娘と遭遇してしまった。
見れば見るほど美しいかんばせだが、さらにそれを引き立てるべく艶やかな襦裙を纏い、精緻な細工の髪飾りをつけ加えると彼女の身分の高さが知れようというものだ。まずい、これは非常によろしくない。当主には、猫可愛がりをしている娘がひとりいるという話だが、どうも頬を染め俯きながらもじもじ恥じらいを見せているこの子こそが、それらしい。
(く、俺としたことが…とんだ失態を)
二年ほど前、異例の速さで科挙に合格した檸爍は最初こそ疎まれ、ひよっこめと馬鹿にされたものの、最近では直向きな姿勢と素直な性格が功を奏したのか上司から可愛がられ、同僚からは信頼されるという成功を絵に描いたような恵まれた労働環境の中にいた。
それも今日でお終いかと思うと、がくりと膝を折ってしまいそうになる。遥家当主の力は絶大である。機嫌を損ねれば速やかに吏部に手を回して、良くてとんでもない辺境に飛ばされるか。最悪、首切りに遭う危険性だってある。すみません、養父さん。俺がしくじったばかりにとんだ迷惑をかけてしまうようです。
檸爍はゆるゆると跪き、礼の形を取った。
「先程は、失礼いたしました。…斯様な天女と見紛うばかりの姫君の臥室に立ち入ってしまうなど、決して許されるようなことではございません。ですがもし、俺がもっと狡猾であったなら…」
伏せていた眸を上げると、娘と目が合った。
「彼の男が羽衣を隠したように、貴女を天へと帰らせないために動いたでしょう。お気を付け下さい、隙のある行動は誤解を招きます。男は愚かな生き物であることを、心にお留め置き下さいませ」
娘の頬がみるみるうちに熱り始めたのを見て、檸爍は首を傾げた。いきなりどうしたのだ、彼女は。もしや具合でも悪くなったのだろうか。
「顔色が優れませんね、医者を探して参りましょう。姫は此処で暫しお待ち頂けますか」
「え? いや違います、ちがうんですそうじゃなくて…っきゃあ」
焦ったせいだろう、ずるりと裾を踏みつけた拍子に彼女の身体はぐらりと前に傾いた。危ない、と思った瞬間には足が前に出ていた。
背中に、どすんという衝撃が有ったものの予想以上に軽くたいしたものではなかった。
「お怪我はありませんか?」
「………はい」
羽根のように軽いとはよく言ったものである。女人とはいったい何を食べて生きているのだろう。義姉たちのほっそりとした身体を見てもよく思うのだが、自分が今抱きとめている娘の華奢な身体つきは強く抱けば軋んで壊れてしまいそうな感がある。まったくもって不思議なものだ。
ぽうっとした顔つきなのが気になるが、やはり熱でもあるのやもしれぬ。早めに薬でも処方してもらった方が良いのではないか。いや、薬湯でも飲んで温かくして眠っていれば直ってしまうだろうか。俺の場合とはまた状況が違うかもしれないし。
「あの、貴方さまのお名前は?」
あれこれ考えていたところに不意にかけられた声に、何も考えずに檸爍は返事をしていた。
「俺、ですか? 瑛杏で暮らしております、遥家分家筋の遥檸爍と申します」
遅れましたが、新年あけましておめでとうございます、と本来は当主に言うべき挨拶を、檸爍はうっかり先にこの姫君にしてしまっていた。
「…檸爍さま」
恍惚とした表情を浮かべる娘にどうやって自分の身体から下りてもらおうかと考えていたところで、急に目の前の戸が開いた。
「…ふむ、騒がしいな。誰かいるのか」
戸口に現われた遥家当主、遥遂良の姿と檸爍は現在自分が置かれている状況を見比べた瞬間に、終了の銅鑼の音が頭の中で鳴り響いていた。