グッド・センス・ネクタイ
罪悪感はある。内緒でこんな大胆なことして、奥さんどころか高市主任までも騙している。
影でひっそりネクタイを選ぶ女、我ながら怖すぎる。ストーカーの道まっしぐら。
いくら好きな男を飾りたいからとはいえ、いつからこんな女になっちゃったんだろうと、まじめに落ち込むときもある。
でも、高市主任があたしの選んだ新しいネクタイをしてくるたびに、またやっちゃろう、という気になってしまうのだ。
里見セレクトのネクタイは、もう十本だ。
社内でも、彼のネクタイは評判。高市主任は、すぐ顔に出るタイプなので、例の目がなくなってしまう満面の笑で、とろけそうだ。かわいい。
大好きな男が自分の力でぐんぐんいい男になっていくのを見るのは、最高に気分が良い。女冥利に尽きるよね。
「高市主任、今日のネクタイも、いいですね」
彼は、あたしが選んだトミーヒルフィガーの赤地のネクタイをなぞり、照れ臭そうに笑った。
奥さんは、主人には黄色とか青が合う、赤は派手すぎて…と言っていたけれど、ほら、ちっともそんなことない。似合っているよ。さすがだね、あたし。
「赤は着けたことがなかったから、不安だったんだけど」
あたしはぶんぶん頭を振った。
「そんなことない!今日のスーツにも合って、いい感じ。主任は、若くてかっこういいんだから、もっと派手にしないと」
お酒の勢いで、普段なら言わない軽口がポンポン出た。
あたしたちは居酒屋に来ていた。二人で組んだ営業が上手くいったので、ささやかに祝杯をあげているのだ。
というのは、表向きの理由。あたしたちは、週一回は一緒に夕飯を食べたり、お酒を飲んだりしていた。仕事の相談に乗って欲しいとか、憂さ晴らしがしたいとか、もっともらしい理由をつけて、あたしが高市主任を誘い出している。
高市主任があたしの選んだネクタイをしているのを見ると、ちょっかいを出したくなってしまうのだ。覆面スタイリストのフラストレーション、その反動?
何だって良い。ネクタイは、あたしに恋の勇気をくれていた。
こうして二人きりで飲んでいる様子に、他人はあたしたちを恋人同士だと思っているに違いない。
当の高市主任は、どうなんだろう?あたしにドキドキしていないのかな?あたしのこと、どう思っている?
かわいい部下に誘われちゃ、飲みだって断れない。口説かれるリスクがありながらも、優しいから、こうして来てくれる。
だけど、一方で思う。本当に、優しいだけ?愛妻家の評判だけが、彼のすべてではない。他人のものでも、男だよ。あたしにときめいているんじゃないの?
一緒にいればいるほど、隙ができていく。それは、あたしの勘違いじゃない…?
「そんなに誉めてくれても何も出ませんよ。まったく里見さんは、口が上手いなあ」
「あたしは、いつだって本当のことしか言いません」
お酒が入って、主任の笑顔はネクタイと同じ色になった。
すぐ顔に出るタチを奥さんも知っているはずなのに、赤が似合わないなんて、どうして思い込んだんだろう。
「里見さんの彼氏は、幸せ者ですね。いつもこんな風に褒められて」
「彼氏なんて、いないって言ったじゃないですか」
「作らないんですか?」
「作ろうにも、いい男は、みんな売れてるしね。――主任も売れちゃっているし」
「そんなことないですよ。ぼくだって、また素敵な出会いがあったら、いつだって」
まともに受け取りそうになり、それを気づかれまいとして、あたしはわざとちゃかした。
「あ、いけないんだ。もっとも主任は優しいから、不倫なんてできないだろうけど」
「分かりませんよ、ぼくだって、こうして里…いや、ま、いいです。里見さんには、良い人が現れますよ、きっと」
言いかけた言葉と、最後の文句に、揺れた。どっちなの?
「…でも、主任も、気をつけないと。優しいと、あとで困ったことになっちゃうよ」
「困ったことって?」
どっちに取ってもいい。思いきって言ってみた。
「ほら…部下に、惚れられちゃうとか」
すると、高市主任は、ぽつりと言った。
「嬉しいです」
送ってもらう帰り道、あたしは、顔の真横の主任の赤いネクタイをじっと見つめていた。
ほんと、似合っている。
あたしが選んだんだよ。あなたが素敵に見えるように。
たまらなくなってネクタイをぐいっと引っ張っぱった。
すると主任の顔がつられてついてきたので、唇にキスした。
拒絶されることを考えて脅えていたのに、彼の唇はすんなりあたしを受け入れた。驚いてつい唇を放してしまったけれど、次は彼から押しつけてきて、もうあたしからの一方的な情事ではなくなった。
彼の唇を味わいながら思った。
ゴールドの生地にブルーの小紋柄、確かブルックスブラザーズ、まだ勧めていなかったな。
次のネクタイは、決まり。今度は、あたしの手から渡すの
「見里さん!」
いつものネクタイ売り場で買ったのがバカだった。
よりによって高市主任に贈るネクタイを包装してもらっていたところに、高市夫人の登場だ。
あたしたち、よっぽど相性がいいのね。とほほ。
けっこう印象深い柄。見られたかな?どうしよう。取り引き先の人に貰ったことにして、彼に着けてもらうつもりだったのに。
「偶然ですね。またご主人のネクタイですか?あいかわらずアツアツなんだから」
ふざけて見せながら、その実、ネクタイを見られたか確かめる文句を頭の中で探した。
そんなあたしをよそに、奥さんは、思い詰めた顔をして言った。
「ちょうど良かった。相談に乗って欲しいことがあるの。外ではなんだから、これからうちに来てもらえない?今日、主人は日曜出勤でいないし」
ちょっと待ったあ!
かなりまずいよ。だって、ねえ…。
そりゃ、興味がないと言えば嘘になる。でも、素知らぬふりして家にまであがりこむなんて、いやらしすぎてあたしにはできない。
ところが、関西弁の妙な人なつこさと迫力に、あたしの言い訳は太刀打ちできなかった。腕をがっちりつかまれて、あたしは高市家に連行されたのだ。
夫婦の住まいは、予想通りこぢんまりとした、掃除の行き届いたきれいな部屋だった。
カントリー調の小物の飾り付けと、あちこちに並ぶ夫婦一緒の写真。愛する男との世界を少しでも映え立たせようとする女の努力が伺える。
奥さんは、白磁のカップでかいがいしくもてなしてくれた。女性らしい温かみが紅茶の湯気と一緒に立ち昇ってきて和んだ。この人と本当の友達になれたら、どんなに良かったか、と思った。
でも、あたしは彼女を憎んでいる。温かみも優しい雰囲気も、主婦独特の安泰感ゆえだと思うと、なおさらだ。
嫌いではない。憎みたくない。けれども、こればかりは、仕方がない。
「ネクタイ、買ったのね」
「え、ええ。柄、見た?」
「ううん。どんなの買ったの?」
良かった、見られていない。間一髪セーフ!
「この前、言っていた人にあげるの?その…奥さんがいるとかいう」
奥さんの声は沈んでいた。
「まあ、一応…」
「あたし、結婚している人を好きになる気持ちって、分からないな」
彼女にしては、妙に気の立った言い方だった。あたしはむかついて言い返した。
作品名:グッド・センス・ネクタイ 作家名:銀子