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グッド・センス・ネクタイ

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「それは、あなたが結婚している人だから。男と女だもん、結婚していようといまいと、恋しちゃうときはしちゃうんだよ」

「そんなの間違っているよ!不倫だよ。奥さんがかわいそうだと思わないの?罪悪感、感じないの?」

あたしが青くなったのは、罪悪感のせいではない。さらに荒くなった彼女の語調。まさか、高市主任とあたしのこと、知っている?

そんなはずない。あたしたちの関係は、痕跡が残るほど、そう数も重ねていないのだ。

あたしは、極力声の上擦りを抑えて言った。

「どうしたの、高市さん?今日の高市さん、何か変ですよ」

奥さんは、長い溜息のあとに言った。

「主人が、浮気しているらしいの」

さすが、「夫が趣味」の、女の勘!

「まさか」、「気のせい」、「証拠は?」なんていまさら言えない空気が漂っていた。

「あたし、彼を信じて東京に出て来たのに、こんなのってひどい。彼、優しいから、つけ込まれたんだと思う。でも、裏切りよ。結婚しているのに」

結婚しているからって、夫をすっかり所有した気でいる思い上がりを、世間一般の奥さんたちはみんな、持っているのかな。

被害者ぶらないで。あたしだって、辛いんだ。

泣かないで。もっとあなたを憎んでしまう。

二人きりでいられる時間は、あなたの方がずっと長いくせに。その一部をあたしに分けてくれてもいいと思う。

この贅沢者!

このままここにいると、あたしは自分が何を言い出すか分からなかったので、帰ることにした。

どのみち、あたしにはもう直接渡せるネクタイがある。

ところが、休日出勤からだんなが帰って来た。

「ただいまあ。案外早くけりがついて…」

あたしを見つけ、茫然自失になった高市主任は、よせばいいのに口からぽろりとあたしの名前を出してしまった。

奥さんは一瞬惚けたが、こういうことにはまったく頭の回転が早く、誰よりも先に行動を起こした。

社員旅行の写真をばらまいて、一枚一枚ひっくり返す。

「『見里』…『里見』…。直接の上司って、そんな…」

彼女は、ぶるぶる震えてあたしを凝視した。

あたしに否定できるわけがない。

ハサミを取り出されて驚いたけれど、奥さんが切り刻んだのは、ネクタイだった。

クロゼットから引っ掴むだけ掴んだネクタイは、全部あたしが選んだもの。半狂乱なその様子を、あたしも高市主任も、ただ見ているしかできない。

奥さんは、主任が今着けているネクタイまで切り取り、切り屑を、全部あたしに投げつけた。

「泥棒猫!いやらしい!他人のふりして近づくなんて、怖い女や!」

冗談じゃない!

最初に近づいてきたのはあんたの方で、あたしは便乗しただけだ。家に来たのだって、あんたが誘ったんじゃないの。

あたし、怖い女なんかではない。信じて、主任!

あたしは高市主任に目で助けを求めた。すると、奥さんに突き飛ばされ、テーブルの角に頭を打つはめになった。

けっこうな音がしたが、高市主任が駆け寄ったのは、あたしではなかった。

「京子、落ち着け。落ち着くんや」

「放して!この裏切り者!あんたが悪いんや!」

「分かったから、頼む、落ち着くんや、京子!」

高市主任は思い余って奥さんを抱き締めた。奥さんはしばらく暴れていたが、夫が一心になだめるのに根負けし、暴れるのをやめて彼の胸に顔を埋めて泣きじゃくった。

目の前の光景がドラマの一シーンに見えた。あたしはといえば、立ち上がる気力もなく、ネクタイの細切れを身体のあちこちにつけて、まぬけだ。

高市主任は、奥さんの肩越しに一瞬だけあたしと目を合わせたが、すぐに奥さんの顔を覗き込んで、背中をトントンと叩いた。

「堪忍なあ、京子」

あたしは、例のネクタイ売り場に来ていた。

どうしてか真っ直ぐ帰る気にもなれず、ふらっとここに来てしまった。

自分の洋服も我慢して買った、デザイナーブランドのネクタイ、高市宅に忘れてきていた。きっと捨てられただろう。

あたしは、今となってはすっかり見慣れたネクタイ売り場を改めて見渡した。

チェック、ストライプ、ドット、フラワー、アニマルプリント。

赤、青、黄色、シルバーにゴールド。メタリック系に毛糸生地、ジャガー織り。

イブサンローランもシャネルもエルメスも、この幅広い紐の幾何学模様をとことんつきつめようと、日々いそしんでいる。

男たちを美しく飾るために。

あたしだって同じだ。恋した男を素敵にしたかっただけ。

罪はないはず。

それとも、結婚という囲いの中に紐一本で入り込もうとしたのが、そんなにいけないことだったの?

涙がこみあげてきた。ぐるりと取り囲むネクタイの模様が、ぼやけて判別できない。二重三重にも見えてきて、涙の向こうでゆらゆら揺れた。

ネクタイたちが、身体を揺らして笑っているように見えた。

たかがネクタイで、男を自分のものにした気になっていたあたしを嘲笑っている。

「好き」という気持ちの力を信じたの。

紙一枚の関係を情熱と紐一本で覆してやりたかった。

でも、それはあたしの思い上がり。

怪我したあたしに見向きもしなかった主任。あたしの知らない言語で話す二人。

「結婚」がそれだけスゴイってこと?時間が足りなかった?あたしは何に負けたの?

心残りがある。あたしは、いつも選んでいただけ、ということ。

涙が溢れて止まらない。売り場中のネクタイが頭の中をぐるぐる回って、気持ち悪くなった。

あたしは、売り場の真ん中で、膝を抱えてわんわん泣いた。


二年後――。

「やばい、遅れる!」

夫は、トーストをくわえたまま、背広に腕を通した。

「あ、ちょっと待って。今日は、このネクタイしていってよ」

「どれでもいいよお。急いでいるんだからさ」

「どれでもいいことない!会社の人に、『奥さん、ネクタイのコーディネイトへたくそ』なんて思われたくない」

「いいよ、自分で結ぶからさあ」

「だーめ。我が家では夫のネクタイは妻が締めるって、決まってんのよ」

きゅっと締め終えると、彼は慌ただしく出勤、飛び出していった。

「いってらっしゃーい」

高市夫妻とのネクタイ事件からほどなくして、あたしは今の主人と出会い、結婚した。あれほど恨みに思っていたいのに、結局自分も専業主婦に落ちついてしまった。

主人は、ネクタイの趣味もそこそこ良い男だったけれど、結婚後は、ネクタイだけは必ずあたしが選んでいる。貰いもののネクタイがあっても、着けさせたりしない。

今日のあたしの見立ても最高。似合っているよ、ダーリン。今日のシャツの色にもぴったり。

あいかわらずおしゃれなネクタイが好き。選ぶのが楽しい。

でも、選ぶだけじゃダメなの、あたしはよく知っている。

ベランダから覗くと、全力失踪で走っていく夫が見える。ネクタイがはためいている。

今日も、あたしの男を飾っている



<おわり>
作品名:グッド・センス・ネクタイ 作家名:銀子