猫の紐
猫が本能とのフラストレーションに苦しむ中、あんたはバカみたいに猫を抱いていたんだ。猫の幸福のためでもなく、猫をかわいがるためでもなく、あんたが猫に甘えたいばかりに。そんなくだらないエゴのせいで、猫は自由も本能も奪われた。」
翼朗さんは、頭をがむしゃらに掻き、地面を何度も蹴って、苛立ちを強めたが、話に隙を作らない。
「なぜだ?なぜ、愛していると言いながら、決して相手の自由を認めない?愛する者の自由をなぜ恐れる?あんたたちを置いていくと思っているのか?独りになることが、そんなに怖いのか?
だったら、あんたたちも外へ出ていけば良いのに。誰かを縛るのではなく、自分が自由になれば良い。しかし、あんたたちは、相手が自分の知らない世界へ出ていくことをひどく嫌悪し、罪として責め続ける。
なぜ、放っておかない?自由にさせることも愛情なのに、あんたたち女は甘えてすがるために子供を支配する。子供への愛情なもんか。自分のためだ。『あなたのため』は大義名分にしかすぎない。
でも、子供は、その大義名分に自由を奪われ苦しんでいる。自由になりたいと、もがいている。
ところが、あんたたちが植えつけた罪悪感に囲われて、外の世界に行けないんだ。あんたたちを愛しているから、あんたたちを裏切られず、自由との狭間で苦しんでいる。
頼むよ、本当に愛しているなら、子供の気持ちに気づいてやってくれ。気づいているくせに、理解するのを頑なに拒むな。自分ばかりを守るなよ。もういいかげん、自由にさせてやってくれ!」
ぼくは、泣いていた。
どんなにかき混ぜても固まらない液体が、胸の中に淀み、ぼくは、長い間苦しんでいた。
気持ちをどう表現して良いか分からずに、猫の言葉しか話せない自分に苛立った。
でも、今、ここに言葉が存在する。確かに翼朗さんの話は、思いもかけない展開となったが、ぼくの猫語をすべて人間のものに置き換えて、ぼくが抱えてきた気持ちを怒涛のように語っていたのだ。
――ああ、こう言えば良かったんだ。
ぼくの思いは、ちゃんと人間の言語になるんだね。気持ちは、間違っていなかったんだね。
ほっとした。涙がよけいに止まらなかった。
「あなた、おかしいわ。私は、猫の話をしているのよ」
愛美さんは、目に涙を溜めて精一杯抗議する。
しかし、翼朗さんの勢いは止まらない。
「猫の話さ!愛情を大義名分に過保護に育てて、世間知らずにし、何もできない猫にしてしまったのは、あんただ。紐を切らなくても、いつかはほどけて、猫は逃げていたさ。でも、外に出たことのない猫は、右も左も分からず、縄張りの感覚もない。何が恐ろしく、何が命の危険かも分からない。あんたがつないで猫の生きる術を奪ってしまった。
猫が死んでしまったとしても、それは他の誰のせいでもない、あんたのせいだ。何もできないと決めつけて、やたら干渉して束縛して、ゆっくりと猫を殺したんだ!」
「違うわ!違う!」
そうだよ、違うよ、翼朗さん。
ぼくは紐を切ったんじゃない、ほどいたんだ。
そんなどうでも良いことを、ぼくは考えていた。泣きすぎて、頭がおかしくなっていた。
愛美さんこそ、火がついたように泣き出した。
騒ぎに使用人たちが集まってきて、泣き崩れる愛美さんを介抱している。
悲しいだけで泣いているのではない。翼朗さんを責めて自分の正当性を主張している、作為的な泣き方だった。
ぼくがさんざん見てきた、大嫌いな泣き方だ。
悔しくて、拳に力がみなぎる。
翼朗さんが、ぼくの肩に手を置いた。帰ろうと、促す。
すっと拳の力が抜けて、ぼくはまた泣いていた。
翼朗さんにすがるようにして大声で泣き喚きながら、大家の家を出た。
翼朗さんは、まっすぐにはアパートに帰らず、ぼくを河原へ連れてきていた。
かんかん照りの時刻は過ぎているものの、十分暑い。でも、ぼくが泣きやまないので、薄い壁のアパートへ帰るわけにもいかなかったんだろう。
ぼくは、自分でも驚くくらい泣き続けていた。泣くという感覚が、ぼくには嘔吐に等しかったからだと思う。
河原に腰を下ろして一時間は泣いていたが、ただでさえ蒸し暑い中、体力がもたなくなり、ぼくはいいかげん泣きやんだ。
翼朗さんはその間、ぼくの隣りにじっといたわけではない。少し離れた木陰に彼は寝そべっていた。
おまけに買い物にまで行ってきたらしく、紙袋からアンパンが覗いている。
ずっと隣りにいるとばかり思っていたので、少しがっかりし恨みがましく思った。
翼朗さんのところに行くと、翼朗さんは起き上がり、アンパンを差し出した。
木陰にほっとしながらも、ぼくは泣き続けたばつの悪さもあり、むっつり顔を直すことができない。
本当は、泣くだけ泣かせてくれた翼朗さんの気持ちは、分かっていたんだ。
翼朗さんは、アンパンを食べながら、ぼそっと言った。
「これ買った店、アイスは売っていなくてさ。アイスがアンパンに化けた」
翼朗さんは、愛美さんに呼ばれたせいで食べそこねたアイスクリームを、まだ思っていたらしい。
あんなことの最中も、頭の隅でアイスクリームを憶えていたのかと思うと、ぼくはおかしくなって吹き出した。
ようやく笑った甥をありがたがる風はまるでなく、翼朗さんはぼくを怪訝そうに見るばかりだ。
翼朗さんのマイペースさが、タバコの焦げだらけの4畳半の部屋の空気を、河原の木陰に連れてきていた。そのおかげだ、ぼくが自分でも驚くくらい落ち着きを取り戻せたのは。翼朗さんは、こんな風に、ぼくに魔法を使う。
「翼朗さん、ありがとう。ぼくのこと、かばってくれて。猫の紐をほどいたのは、逃がすつもりだったんだ、ごめんなさい。でも、愛美さんが言ったように、いたずらなんかじゃなかった。本気だったんだ、ぼく…」
翼朗さんは無言でタバコに火を点けた。タバコの匂いにほっとして、ぼくはまた少し泣きそうになった。だから、わざと明るい声を上げてみた。
「翼朗さんて、すごいよね。何でぼくの気持ちが分かったんだろう。ぼく自身だって上手く言葉にできなくて、そもそも言い出す勇気もなかったのに。それを、あんなにズバリと言い当てるなんて、さすが大人で、大学に行っていただけあるなあ」
翼朗さんの雄弁を聞き、ぼくも早く大人になって、思うままを自分で自分を語れるようになりたい、と本気で思った。
「あれは、かなり八つ当たりになっちゃったよ。考えてみれば、たかが猫の話だ。それをあんな風に子供にすり替えてむきになるなんて…どうかしていた。愛美さんに悪いことしちゃったよ」
翼朗さんはタバコの灰を落としながら頭をかいた。
「でもなあ、大人だからおまえの言い分を理解できたわけでもないし、大学に行っていたから言えたわけでもない。同じ思いをした者ではないと、分からないことだよ」
「同じ思い?」
翼朗さんは瞳を伏せて、ゆっくり語り出した。それは、ぼくが翼朗さんからはじめて聞く、彼の過去だ。
「俺、親戚の中で期待の星だったんだぜ。本家筋の跡取りだったし、小中高と名門学校で、自分で言うのも何だけど大学も飛びきりのところへ入った。出来がいいって、そりゃ親戚中にもてはやされたよ。