猫の紐
特に、母親――ケースケのおばあちゃんには、めちゃくちゃかわいがられた。俺のためなら何でもしてくれた。俺のことばかり年がら年中考えて、尽くしてくれたんだ。
『翼朗さんと私は一心同体よ』『翼朗さんのためなら命だって落としてもいいわ』というのが口癖で、『お母さんは翼朗さんのためにこんなにがんばっているのだから、翼朗さんもしっかりね』『お母さんの言う通りにしていれば、間違いないわ』と、試験の前になると唱えていた。
たぶん、そういうのって、ありがたいことなんだろうな。一心に愛情を注がれて、俺は幸福だったんだろう。
でも、ある日、気がつくと、俺は、自宅で、母親の首を絞めていた」
翼朗さんの思いもよらぬ告白に、ぼくは愕然とした。思わず聞き返そうとしたが、翼朗さんの細い瞳が潤んで揺れているのを見て、また言葉を失った。
一方、翼朗さんはそんなぼくに気づきながらも戸惑わない。あいかわらず口調だけは穏やかなまま、話を続ける。
「きっかけは単純な話だ。母親の反対を無視して、独り暮らしをするために俺が部屋を探していたところ、母親が家のすぐ近所に、勝手にアパートを借りてしまった。
お食事を持っていっても冷めない距離だとか、毎日お掃除お洗濯に行ってあげるだとか言って、彼女は自分が独り暮らしを始めるみたいに、はしゃいでいた。
俺は、自由になりたかったんだ。大学は、母さんが望んだ。就職は、父さんが決めた。俺は、せめて独りになりたかった。独りきり、自分の力だけでやってみたかった。
ところが、その希望さえも取り上げられて、俺のすべては完全包囲だ。目の前にシャッターがガタンと下ろされた衝撃を、本当に感じた。
そして自然に手が伸びて、ものすごい力で母さんの首を絞めていた。
手が伸びたのは衝動的だったが、意識ははっきりしていたよ。とにかく憎かった。俺の自由を阻もうとしている母親なんて、いらないと思った。泡を吹き白目をむいている女を見て、来る自由に思いを馳せ、絞める上げる両腕に力を込めた。殺意があったんだ。確実に。
でも、俺は母親殺しにはならなかった。家の使用人が見つけて、止めに入ったから。
親戚中、そりゃもう大騒ぎさ。なんせ地元の名士の家柄、どうにか外部に事件が漏れないよう、みんなで必死の画策大会!
俺に対しては、狂人だ、不名誉だ、精神病院に入院させろなんて、非難轟轟。
一族の秘蔵っ子が一気に持て余し者だ。誰も俺の話を聞いてくれなかった。
俺は母さんの退院を待たずに、家を出た。それきり母さんとは会っていないよ」
翼朗さんはすべてを言いきってしまうと、新しいタバコに火を点けて、深く深く吸い込み、深く深く煙を吐いた。
ぼくは、翼朗さんがぼくをここに連れて来た本当のわけを、初めて理解した。
家にいたときのぼくは、家中のものを投げ散らかし、部屋という部屋のガラスを叩き割った。バットでもモップでも、棒状のものなら何でも振り回した。
怯えるお母さんを殴り蹴飛ばし、汚い言葉で罵った。
お父さんが珍しく愛人のもとから帰って来たときだけは、部屋から一歩も出なかった。お母さんにだけぼくは暴力を奮っていた。
翼朗さんはそれを知っていたんだ。だから、お母さんを守るためにぼくを家から連れ出したんだと、ぼくはずっと思っていた。
しかし、翼朗さんが守ろうとしたのは、お母さんではなかった。
ぼくの振り回すものが刃物にならないうちに、ぼくがすべての不幸を母親だけのせいにして母親を殺さないうちに、翼朗さんはあの日、いつもように暴れ狂うぼくを腕ずくでタクシーに乗せ、ここに連れてきたんだ。
ぼくをかつての翼朗さんのようにしないために。
翼朗さんはあいかわらず瞳を潤ませていたけれど、涙にはしなかった。ただ、赤い瞳は泣きはらし疲れ果てた様相をていしていた。
もう、さんざん泣いてきたんだね。
ところが、ぼくの方はいっこうに泣き足りない。翼朗さんのタバコの煙が目に痛くてまた涙が込み上げてきた。
涙がこぼれるのと一緒に、長い長い間、胸につっかえていたものが、不意に口から飛び出した。
「ぼく、いつもお母さんと一緒にいたんだ。お母さんには、ぼくしかいなくて、ぼくにもお母さんしかいなかった。
でも、だんだんそれが息苦しくなった。だって、お母さんは、いつもぼくが遠くに行かないよう、見張って放さないから。
お母さんはそれを、ぼくのためだと言った。身体が弱くて一人では何もできないぼくを守ってあげているからと。
ぼくも我慢したよ。お母さんはぼくを愛しているのに、悪く思っちゃいけないと自分自身を叱った。
お母さんがぼくを誘いに来る友達を追い返したり、テストで一番の成績を取らないと猛烈に罵ったり、テレビも漫画も取り上げたり、野球大会にもお祭りにも行ってはだめだと命令したりしても、ぼくは、お母さんの言うことはすべて正しいのだと思い込むことにした。そうすれば、すべてが良くなると信じたからだ。
だけど、ちっとも良くならないよ。だって、どんなに我慢しても苦しいままなんだもん。それどころか、日増しに身動きが取れなくなっていく。狭い檻に閉じ込められたみたいに窮屈で仕方がない。でも、どうやって抜け出せば良いかも分からないんだ。
お母さんに何かを伝えようとした気もする。だけど上手く言葉にできない。それどころか『あなたまでお父さんと同じように、お母さんを不幸にする』とお母さんを泣かせちゃった。ぼく、悪い子だ。お母さんがかわいそう。
ところが一方で、逃げたい気持ちが張り裂けてしまって、いつからか、ぼくは暴力を奮うようになった。家具を壊して、割れるものは何でも割って、お母さんを殴った。
でも、お母さんは分かってくれないんだ。ぼくを嫌いになってくれれば良いのに、ぼくが暴れれば暴れるほど、ぼくを愛するんだ。ぼくが暴れるのをやめると、ぼくを抱きしめるんだ。あなたのためなら、何でもしてあげると言って。
どうしてもぼくを解放しないんだ」
これだけ自分の気持ちを堰切って話したのは初めてだった。
理解されないことを恐れもせずに話せた。たとえ言葉にならなくても、矛盾だらけだとしても、翼朗さんには伝わると信じたからだ。
翼朗さんは、ぼくの肩に手を乗せて、ぼくを優しく見つめた。
「姉さん…おまえのお母さんも、昔はああじゃなかったんだぞ。ずっと小さいときは、よく俺たちは野原で遊び回ったよ。朗らかで優しくて、良い人だったんだ。
ただ、俺たちの母さんは俺ばかりをかわいがったから、姉さんには寂しい思いをさせてしまった。そのくせ母さんは姉さんの自由にはさせず、姉さんの意志におかまいなしに結婚も決めてしまった。
でも、姉さんはケースケのお父さんをちゃんと愛したんだ。だからこそ、おまえがかわいくてしかたがなかったんだろう。
おまえのお父さんも、姉さんを愛していたはずだ。ただ、何かのすれ違いで姉さんから心が離れて、よその女のところに行ってしまった。姉さんは、母親からも夫からも見捨てられて、もうおまえしかいなくなってしまったんだなあ。だから、おまえを苦しめるほど愛してしまったんだろう」
「ぼくがもっとお母さんを支えてあげれば良かったの?」