猫の紐
とにかく、たった一歩が、庭を絵画から生身の世界へと変えた。
庭にも夏があった。地面からもうと熱気が込み上げ、毛穴をあぶる。セミの鳴き声が耳障りだ。風の一つもない。
入ってしまえば庭は小さく、ぼくの背は、ここでは意外なほど高かった。芝生、松の木、池、何を見るにつけても、小さな子供を見下ろしている感なんだ。
ぼくは、ミイを探した。
現実のミイも、夢の中と同じ、縁側まであと少しという位置にうずくまり、柱に赤い紐でつながれている。
猫は一日の大半を眠って過ごすそうなのに、なぜだ、夢の中でも現実でも、ぼくが見るミイはどちらもはっきり瞳を開けている。庭を見ているのか、侵入者のぼくを警戒しているか分からない、丸い瞳。
ぼくの脳の熱を赤い紐が煽る。眩しくて瞳が焼き切れそう。
ぼくは縁側にあがり込み、紐に手をかけた。
柱との結び目は、結ばれすぎて塊になっている。指を入れる隙間もない。何で、ここまでする必要があるんだ。
赤い色の痛みをこらえながら、どうにかほどこうと悪戦苦闘しているとき、低い位置から視線を感じた。
振り向くと、ミイが見つめている。ひもを見ているのか、ぼくを見ているのか、あいかわらず視線の先が掴めない。ただ、その透明さに、ぼくは胸を痛めた。
――世界はすぐそこなんだよ、ミイ。
掌からにじんだ汗で結び目は湿気を帯び、よけいに固くなった。それでもぼくは、むしろこの湿気が救世主となって、結び目を柔らかくほぐしてほしいと、矛盾した願いを強くした。
ふと、紐の抵抗がゆるんだ。
はやる気持ちのままに、ぼくは紐の隙間に指を入れて塊の破壊に躍起になる。
そのとき、廊下をやって来る人の足音がした。
ぼくは反射的に指を引き抜いた。
足音は近づいてくる。
どうしよう。どうしよう。
ミイは、あいかわらずこちらを見ている。透明な思惑がぼくを突き刺す。足音とミイの視線が、ぼくの目と耳で交錯した。
しかし、足音の圧迫に耐えられず、ぼくは庭に飛び出したんだ。そのまま一目散に庭から逃げだした。誰が来たのか、確かめもせずに。
そのときの足音の主が大家のところの使用人で、ぼくの逃げる背中を見たんだろう。いくじなしの背中を。
美しい庭。でも、小さな世界。外の世界がもっと広いことをミイに教えてやりたかったのに。縁側に突き出た屋根の上にも、延々空が続いていることを知ってほしかった。
が、ぼくはいざとなったら逃げ出してしまった。
その晩は、またミイの夢にうなされた。ミイの瞳に空が映らない夢。世界を映さない、空っぽな瞳。
ところがだ。不甲斐ないぼくをよそに、現実のミイは、逃げた!
ミイは、首だけぼくの方を向けて、不動の姿勢でうずくまっていたはずだ。
しかし、ぼくが紐をほどこうとしていたのを、分かっていたのか。それとも歩みの抵抗のなさに、歩んだ分だけ先へ行けることに、ミイは紐がほどけていると気づいたんだろうか。
いや、それどころなもんか。完全にほどけきっていなかった紐。ミイは、それを引っぱったんだ。庭へ下りようと、どこまでも続く世界へ出かけようと、ミイは自らの意志で飛び出したんだ。
大空へジャンプ!
ミイはやったんだ!
「何が嬉しいの!?」
悲鳴に近い高音が、耳を貫いた。
猫のジャンプの映像が掻き消えて、ぼくは大家の玄関に立っていることを思い出した。
「なんて子なの。ミイが逃げたことを笑うなんて。わざとやったのね。わざとミイを逃がしたのね!」
自分の状況に立ち返り、ぼくは固まった。また額が熱を失って、貧血だ。
その間も、愛美さんの怒涛の高音が耳に雪崩れ込む。
「あなたには、ただのいたずらだったのかもしれない。でも、ミイは、昨日から帰ってこない!ミイがこのまま帰ってこなかったら、継介くん、あなたのせいよ!
ミイは、私にとってかけがえのない猫だった。小さなころから、大切に大切に育てた。毎日抱いたわ。一緒に眠った。いつもそばにいて、世界の何よりもかわいがった。病気にならないよう、ケガをしないよう、いつも注意したし、毎日ブラッシングして、美味しいものばかりを食べさせた。きれいな首輪のアクセサリーも揃えてあげた。私がいないときも寂しくないよう、おもちゃもたくさん買ってあげた。
ミイほど満ち足りた猫はいなかったのよ。飼い主の私にとことん愛され、大切にされ、守られていた。怖いものが何一つない天国みたいな家の中で、快適に暮らしていたの。ミイは幸福だった。私も幸せだった。なのに、あなたがそれをぶち壊したのよ!」
弁解がしたい、とぼくは思った。でも、何を?ぼくが逃がしたことは、確かなのに。
どのみち、ぼくが何を言ったところで、愛美さんには伝わらない。ぼくの気持ちなんて、分かってくれるはずがない。
いつだってそうだった。ぼくの言葉は、否定されるだけ。正しくないのは、ぼくだけ。
猫の苦しみ、猫のもどかしさ、はがゆさ、冷たい諦め――不自由な猫を、どう助けてやったら良い?
ぼくの言葉が人間の言語だと、どうすれば分かってもらえるんだ。猫の鳴き声にしか聞こえないんだろう?
夢から醒めても、ぼくはずっと猫のまま。紐をほどいても、やはり猫のままなんだ。
「快適だったら、逃げたりなんかしなかったさ」
ぼそっとつぶやいたのは、翼朗さんだった。
ぼくも愛美さんも、耳を疑いながら翼朗さんを見つめた。
特に愛美さんは惚け気味になって、どういうこと?とやけにゆっくり聞き返した。
が、翼朗さんは、愛美さんをキッと睨んで言ったんだ。
「幸福だと猫も思っていたのなら、ずっとここにいて、あんたのところから逃げたりしなかった、と言っているんだ!」
思いもかけない怒声に、ぼくも愛美さんも身をすくめた。ぼくの貧血が移ったのか、愛美さんも棒立ちになる。
ぼくだって怖かった。こんな翼朗さん、はじめてだ。細い目と耳を真っ赤にして、高い上背から男の野太い声を叩きつける。がっしりした肩が震えているから、爆発寸前の火山みたいだ。愛美さんと反対で、翼朗さんは熱い血潮でたぎっていた。
「何が幸福だよ。日中はずっとつないだまま、夜は家の中に閉じ込めていた。猫は自由に歩き回ることもできず、束縛されて暮らしていたじゃないか。猫と自分を置き換えてみろよ。もし、同じ目に合ったら、あんたはどう思う?」
愛美さんは青い顔をますます青くさせながらも、気丈に言い返した。この心酔者の反逆が、信じられないでいるらしい。
「何も好き好んでつないでいたわけではないわ。ミイのためを思って…外は病気やけがでいっぱいだもの。
翼朗さん、あなたこそ、自分の甥がしたことを棚に上げて、ミイが幸福ではなかったと決めつけているわ。私は、こんなにもミイを愛して」
ところが、翼朗さんは皆まで聞いちゃいないんだ。怒声のまま一気にまくしたてる。
「決めつけているのは、そっちじゃないか!ミイが、病気や怪我が怖いから、つないでください、とでも言ったのか?本能と反することを喜んで受け入れたのか?あんたの独り善がりの思い込みと、飼い主の強みで、弱い猫を従わせていただけじゃないか。