猫の紐
いや、気のせいか、おとといよりも昨日よりも、なんだか狭くなっている。四方八方がじりじり押し寄せ来ている危機感を、ミイはひしと感じている。
そして、息苦しそうに目を細める。めまいがして、体温がこめかみからぐんぐん抜けていく。一緒に血が引いていくから、へたってもう歩けない。
とうとうミイは倒れてしまった。
誰かいないの?ミイを助けて。だれか気づいて。ミイはここにいるよ。
ミイを助けて。
いつかミイは、この広い家が大きなキャットケイジでしかないことを知るのだろうか。
そして、少しずつ家が狭まり、行き止まりが近くなり多くなり、やがて壁がミイを押し潰してしまうことを、誰か気づいてやれるだろうか。
今だって高くて大きい威圧的な囲い。それがバラバラと小さなミイめがけて倒れてくる――。
いやだ、誰か、助けてくれ!
圧迫感に耐えきれず、ぼくは目を覚ました。
闇が広がり、すぐには自分の居場所が分からなくて怯えたが、やがて翼朗さんの部屋にいたことを思い出す。
カーテンのない窓から街灯の明かりが差し込む。そのせいで輝きは薄れているものの、夏の星座が夜空に広がっていた。
まだ身体が熱い。でも、夕方よりはずいぶん楽になっている。
翼朗さんは、いない。銭湯にでも出かけたんだろうか。
ぼそぼそと誰かの話す声がした。隣りの部屋のテレビかと思ったが、それは廊下から聞こえてきた。
タバコの臭いが微かに漂ってくる。翼朗さんがいつも吸っているやつだ。
翼朗さんは、ぼくに気兼ねし廊下に出てタバコを吹かしながら、アパートの住人とでも話しをしていたようだ。台所の曇りガラスに翼朗さんの影が映り、背広姿の男の影が隣りにあった。
ぼそぼそとしか声が聞き取れない。でも、耳が慣れてくると、ところどころ言葉を聞き分けられるようになった。
おかげで翼朗さんの相手が、アパートの住人ではないことを知った。
「…が毎晩泣いて…歩けさえしたら…」
「義兄さんこそ…夫…父親…」
「仕事…」
「女と…別れ…」
「……」
「継介…追い込む…」
「暴れ…反抗期…一過性…」
「理解してやって…」
「きみのようにならないためにも?」
「……」
やがて、窓ガラスから背広姿の男は消えた。
しーんと、静けさに満ちる。
翼朗さんはすぐには部屋に入ろうとせず、窓ガラスに寄りかかっている。新しいタバコを取り出したらしく、再びガラス越しに煙が立ち昇るのが見えた。
熱のせいだ、翼朗さんの姿が、目に痛いなんて。
ぼくは、少し期待したんだ。背広の男が、部屋のドアを開けて中に入って来ることを。
具合の悪いぼくを少しでも心配して、様子を伺いに来るのではないかと、待った。
でも、背広の男――お父さんは、家にいるときと同じ、ぼくにまるで関心がなかった。怪我をしたお母さんに言われただけで、ここに来たんだ。
なぜ期待したのか、ぼくは自分を不思議でならなかった。
分かっていたことなのに。いつだってお父さんはぼくにかまわなかったし、ぼくもお父さんを無視していた。
なのに、今、ショックを受けているなんて、おかしいよ。
いつのまにか涙が流れ、寝ている耳元に熱く溜まる。
寂しい。寂しい。寂しいよ、翼朗さん。
でも、翼朗さんの姿は眩しく遠い。熱と涙で、ぼやけて見える。
お父さんの言葉が頭に過った。
――「きみのようにならないためにも?」
なぜ?ぼくは、翼朗さんのようになりたいよ。強くて大きくて、独りで生きている。
翼朗さんのような強い男になりたい。寂しいなんて感じないほどの。
ぼくは、「翼朗さんの窓」から夜空を見渡した。
遠い暗闇に密集した星座が、小さく瞬いている。じっと見つめていると、その距離に吸い込まれそう。
不思議と気持ちが落ち着いてきた。熱のある頭に、宇宙の冷気が心地良い。
果てしない宇宙。暗くて凍える闇が続く。
あそこなら、もう誰もぼくを追ってこられない。だから、悲しんだり、傷ついたりしなくて済むんだ。そのうち慣れて、独りぼっちも寂しくなくなるだろう。
翼朗さんみたいになれるのなら、ぼくはこの窓から飛んでいきたいと、心から願った。
アイスクリームの蓋を開けたところの来客に、翼朗さんが舌打ちしながら戸を開けると、そこには、大家のところの使用人が沈鬱な顔をして立っていた。
「愛美お嬢様が、お二人揃ってすぐに来るようおっしゃています」
翼朗さんがあとで行くと言っても、使用人は首を振って動こうとしない。
冷蔵庫といった上等なものが翼朗さんの部屋にあるわけもなく、ぼくらはついにアイスを諦め部屋を出た。
案内されてきたはずが、屋敷には上げてもらえずに、玄関で待つよう言われた。
大きく突き出た庇のおかげで日差しは避けられるものの、急な呼び出しの上、夏の最中を玄関に突っ立っていなければならないなんて、ぼくも翼朗さんも、まるで納得がいかない。
ほどなくして、愛美さんが現れた。
いつもはしとやかで、絹のベールをまとっているようなしぐさの愛美さんが、駆け足でやってきただけでも意外なのに、彼女の顔はまるで血の気がなく、今にも倒れそうだった。
瞳とまぶただけは真っ赤だ。青白い皮膚と赤のコントラストが奇妙に迫力で、ぼくはたじろいだ。
今この瞬間に、好きな人に気持ちを打ち明けようする女の子にように、愛美さんの胸は上下していた。彼女は、胸に手を当て自分をどうにかなだめながら、話を切り出した。
翼朗さんにではなく、ぼくにだ。
「継介くん、あなた、昨日、うちに来なかった?」
「え?」
嫌な予感に、ぼくもドキドキしてきた。
「継介くんが、庭にいたのを、うちの使用人が見たと言っているの」
翼朗さんが何か言いかけたのを、愛美さんは制した。
「いいのよ。それは別にいいの。私が聞きたいのは…継介くん、あなた、猫の紐に触らなかったかしら?」
電撃ショックのあと、ぼくは一気に気が遠くなった。魂が身体を抜け、今立っている位置から三歩退いた感覚に陥る。
そんなぼくの態度に、愛美さんはすべてを悟った。そして大声を放った。
「なんてことをしてくれたの!?おかげでミイが逃げてしまったわ!!」
怒りに燃える愛美さん。青くなったり赤くなったり、あの美しい彼女が、嘘のようだ。
昨日、ようやく熱の下がった身体で、ぼくはふらりと大家の庭にやってきたんだ。
まだ頭がぼんやりしていた。脳の熱だけが、冷めていないみたいに。
風邪をひいて寝ていた数日の間、ぼくはミイの夢ばかり見た。ミイを遠くで眺めていたり、ときに自分がミイになっていたり。
ぼくは、ミイの夢にとり憑かれていた。ともすると、ミイ自身が、ぼくの熱なのだと思った。
ぼくは、あの庭に、何しに行ったんだろう。
たぶん、熱を取り払うためだ。
熱気を帯びた瞳にも、大家の日本庭園は瑞々しく映えた。傾きかけた陽に、名残の陽炎が揺れている。
誰もいなかった。
ぼくは、憧れの庭に足を一歩踏み入れた。
芝生の一本一本が折れて潰される感覚が、靴の裏からも感じられた。
不思議な罪悪感。命を手折ることに対してだったのか。それとも、芝生の均一の美を破壊した後悔?