猫の紐
冷たい汗がどっと噴き出した。貧血のときの症状に似ている。風景が遠く感じられる。晴れた空の光に避けられているみたいに。
どうしたんだ、急に。何でこんなに辛いんだ。身体の自由が利かないよ。
息も苦しくなってきた。どうしよう、呼吸の仕方が分からない。
一体ぼくはどうなってしまったんだ。寒いよ、怖いよ、だれか、助けて!
「ケースケ」
懐かしい声を、ぼくの耳は聞き逃さなかった。声の綱にしがみつき、ぼくは現実に引き戻された。
垣根の向こう、翼朗さんが立っていた。高い垣根だが、それよりも翼朗さんの方が頭一つ分高い。
ぼくは翼朗さんを見つけて救われた思いでいっぱいだった。ところが、翼朗さんは怖い顔をしていたから、せっかく和らいだぼくの頬も固まってしまった。
怖い顔――というより、表情がない。顔の筋肉が硬直しているせいだろうが、顔だけ時間が止まっていた。人間ではないものの首が垣根の上に乗っているようにも見えて、ぞっとする。
それでも細い枠の中、瞳だけが、なんとか人の温もりを残して、何かを見つめている。
それが庭なのか、猫なのか、ぼくなのか、確かめようとしたとき、不意に翼朗さんの姿が消えた。
ほどなくして翼朗さんは庭から入り込んできた。きれいに刈られた芝生を軽快に踏みしめて、縁側にやって来る。
翼朗さんはころっと笑顔で言った。
「愛美お嬢さん、すいません。ケースケが図々しくお邪魔しまして」
「あら。まったくかまわなくてよ。これからミイと遊んでもらうところだったの。翼朗さんもおあがりになって。継介くんを一人ぼっちで放っておいていることを、とっちめてあげる。ねっ、継介くん?」
愛美さんは白い顔に片えくぼをたたえ、いたずらっぽく微笑んだ。
しかし、ウルトラマンの三分間タイマーばりにしか緊張がもたない翼朗さんは、やはり丁重にお断りして、ぼくを連れて帰った。
帰り道、垣根に立つ翼朗さんの怖い顔が忘れられず、ぼくは彼が怒っているのか確かめようと、おそるおそる盗み見た。
しかし翼朗さんぼうと先を見ているだけ、いつもと変わらないようだったので、勇気を出して話しかけた。
「今日は、早かったね」
「店の工事で半ドンだったから。朝、言っただろう?」
ぼくの取り越し苦労だったらしく、豪快なあくびが返ってくる。
「あー、なんかさっぱりしたものが食いたいなあ。よし、今日は冷やし中華だ。大根おろしとからめてさ、出汁もこんぶから取って和風にしようぜ。作り方、教えてやるから、覚えろよ」
ニッと笑って、翼朗さんはぼくを買い出しに引っぱっていった。
しかし、ぼくは、翼朗さん考案の「和風冷やし中華」は食べられなかった。
家に帰り着くなり、ぼくは急に気分が悪くなって吐いた。そのまま高熱を出し、寝込んでしまった。
翼朗さんが、ふとんを敷いたり、氷枕を近所から借りてきたりで、駆け回っている。
しかし、赤いマグマが渦を巻いてぼくの身体を占拠していたため、慌ただしい足音に現実感がない。
医者が来たことには気づいていた。朦朧としながらも、久しぶりの往診がいまいましかった。
「夏バテから来る風邪でしょう。子供は、突然こうなるんですよ」と、医者は呑気に言う。
すかさず誰かが、ぼくに囁いた。
――「何かあると、この子はすぐに熱を出すのよ。弱くて放っておけないわ」
囁きは、微笑を含んでいる。
そうだ、ぼくは、よく熱を出す子供だった。
弱いから、熱を出す。
熱を出すから、外に出られない。
外に出られない。
外に出られない。
弱いから。
弱いから。
ぼくは、泣いた。涙の熱気がよけい身体の熱を高めた。
医者が「熱で混乱しているんでしょう」と説明する。
翼朗さんは「なーんにも心配すんなあ」と、自分こそ心配しているくせにそう言って、ぼくの額に手を置いた。
その瞬間、ぼくは、細く冷たい手を怖れ、身をすくめた。
でも、乗せられた手は、大きく無骨で重くて、熱い。
ぼくは安心してよけいに泣いたけれど、やがて眠りに落ちていった。
夢を見た。
愛美さんの家のミイが、柱のそばに座っている。
いつもミイをつないでいる赤い紐は、ない。
ぼくは、ほっとした。
窓は全開で、縁側も庭園も露出している。
ミイは、じっと庭を見る。
緑の芝に視線を走らせる。
池の水面の照り返しに目を細める。
花びらの一枚が落ちたことに気づいて目を見張る。そのすぐあとには、ミツバチの飛行に追いつこうとして、必死に目玉を巡らせる。
さあ、行こうよ。
ミイ、世界は美しいよ。
ミイ、世界は果てしないよ。
陸地も空も三百六十度、どんなに歩いても、行き着けないほど、世界は広いよ。
行き止まりに心配することなく、歩いていけるよ。
さあ、ミイ、今だ、行こう。
ところが、ミイが一歩足を踏み出したとき、愛美さんがミイを抱き上げた。
その瞬間、眺めていたはずのぼくは、ミイ自身になって、愛美さんに抱かれていた。
きれいな愛美さん。石鹸の香り。腕と胸は、温かくて柔らかい。
身体の中で、誰かが誘う――さあ、行こうよ。世界は美しいよ。
さっきミイを誘ったときのぼくの声だ。
そう。ぼくは、今度こそ出て行こうとしていたんだ。
ぼくは、愛美さんの腕と胸からはね出そうとして身体をくねらせた。
でも、柔らかなはずの腕は、がっちりとぼくを捕らえ、びくともしない。ぼくがもがけばもがくほど、きつく締め上げていく。
ぼくは、外へ出してとお願いした。しかし、ぼくは猫だったので「ニャア」としか声にならなかった。
愛美さんは、まるで宗教画の聖母像のような微笑を湛えている。ぼくをよっぽど好きなんだ。
ぼくは胸を痛めた。こんなに愛してくれているのに、逃げようとして、ごめんね。こんなに愛してくれているのに、叩いたりして、ごめんなさい。
こんなぼくでも、そばにいるだけで、あなたは幸福でいてくれるの?そのためなら、ぼくは何だって…。
ぼくがそう思っているよそで、ミイの身体は、あいかわらずもがいていた。
抱きかかえる腕の力強さに諦めたものの、首だけは庭を見た。
瞳の中で、庭が揺れる。
次のシーンは、夜だ。
家中の戸が閉まり、外界のすべてを遮断した。
ミイは、家の中を歩き回っている。
家は広い。猫には、よけいに広いだろう。
でも、やがては辿り着く、行き止まり。
ドアが、窓が、雨戸が、頑なに行く手を閉ざしている。
ミイは顔を上げ、行き止まりをじっと見つめた。
が、やがてプイと向きを変え、別の行き止まりへ歩いていく。
そして、その行き止まりでまた顔を上げ、じっと眺めている。それからまた別の行き止まりへ向かう。
一晩中、ミイはただひたすら行き止まりを回っているんだ。行き止まりを記憶しているはずなのに、無言で行き止まりを凝視するだけ。
ああ、不思議なんだな。だって、どんなに歩いても、庭に辿りつけないから。
どんなに歩いても、歩いても、閉じ込められているから。
歩いても歩いても歩いても、世界は広がらない。