猫の紐
と、ぼくをたしなめながら、愛美さんは待望のアイスティを作ってくれた。アイスティの氷のカラカラ鳴る音と、愛美さんの高らかな声のはもりに、胸がすく。
ぼくは、クーラーのきいた部屋に通され、肩をすぼめて座っていた。計画通りになったものの、テーブルに一人座らされて、所在なかった。
部屋は、小さな応接セットと洋酒が飾られた瀟洒な客間だったが、窓が小さくて庭が見渡せない。
猫もいない。
来た早々の一番に「猫!」と催促するほど、ぼくも幼くない。
すぐにクーラーがきく狭い部屋に通してくれたんだろうが、なんだかセピア一色のイメージに目に楽しめるものが何もないまま、ぼくは緊張に固くなっていた。
それでも、愛美さんの半袖から出た腕がグラスを置いたときは、うっとりとした。抜けるような白い肌から、不思議な甘い香りが漂ってくるようだ。
「来て良かった」と思った。
翼朗さん、ぼくだけ、ごめん。
さすがに喉が渇いていたので、ぼくはごくごくアイスティを飲み干した。愛美さんは瞳を丸くして驚いたが、やがてにっこり微笑んだ。
「ちょうど良かったわ。ピアノのお稽古の帰りだったの。今日は、継介くん一人?翼朗さんはお仕事かしら?」
ぼくが肯くと、愛美さんは、
「いけないわねえ。あなたをお預かりしておいて、一日中放っておくなんて」
思わぬ展開になり、ぼくは慌てて首を振った。
やるべきことをやっていれば、あとは何の干渉もなく、好きにやらせてもらえている。
それが、どれだけぼくを安心させているか。
大人はみんな、子供が放っておかれることを、良いことと思わないのかな。
愛美さんに、ぼくの気持ちや翼朗さんを分かってほしくて、
「翼朗さんは、その、忙しくて、でも、必ず帰ってくるし、そうしたら遊んでくれて、料理も教えてくれて、おかげでけっこう自分一人でもできるようになってきたし、それから、その…」
と、立て続けにしゃべりまくった。しかし通じていたかは疑問だ。
最後に愛美さんが、
「継介くんは、翼朗叔父さんが好きなのね」
と言ってくれたので、救われた。
そろそろ良いかなと思い、わざとらしくキョロキョロと辺りを伺いながら、
「そういえば、猫は、今日、どうしていますか?」
と、ぼくは切り出した。
「ミイ?ミイなら向こうの部屋よ。連れてくるわ」
愛美さんの言葉にぼくは思わず立ち上がり、
「もし、良かったら、お庭も見せてほしいんです」
と言ってしまった。
ぼくが、猫と庭を目当てに暑い道をうろついていたなんて想像もせずに、愛美さんは実にあっさり「いいわよ」と、ぼくを案内した。
こんなことなら、「庭を見せてほしい」ではなく「庭で遊ばせて」とストレートに言えば良かった。あとからいくつもお願いするのは、かえってやりづらい。失敗したな、とぼくは後悔した。
居間の窓が全開し露になった縁側の向こう、日本庭園がざあっと見渡された。太陽の下、庭は眩しく浮かび上がり、瑞々しく、美しかった。池のきらめき、芝生の清冽、敷石のなめらかな光沢に、ぼくはすっかり心を奪われ、佇んだ。
さあ、どうやって切り出そう。ぼくを、この世界に出してくれ、と。
チリン。
鈴の音に、ぼくはすぐに猫を思い出した。
首を振り振り探すと、柱の影から猫が顔を出した。
初めて見たときと変わらず、白い短毛が清潔にふわふわ揺れている。黒い耳をピンと立てぼくを見つめたが、やがて丸い瞳を輝かせて、こちらに歩いてきた。
ぼくはしゃがみ込んで、猫がぼくに寄り添いやすいようしてやった。
「ミイ」
はじめて猫の名前を呼べたことが、ぼくにはひどく嬉しい。身体の中の大量の鈴が復活し、ジャランジャラン騒ぐ。
でも、猫はぼくのところに辿り着かなかったんだ。首輪の鈴だけチリチリ聞こえるのに、ミイはぼくの場所に届かない。
ミイは、赤い紐に引かれていた。
赤い紐は、首輪から柱まで伸びている。紐の先は柱にしっかりくくりつけられていた。
ぼくは、初め、何を目にしているのかよく分からなかった。柱と猫の間で、赤い紐に目線を走らせて行ったり来たりした。しばらくしてようやく言葉が出た。
「何で、紐でつないだりなんか…」
愛美さんは言った。
「かわいそうと思うのね?でも、こうしてつないでおかないと、この子、外へ出ていってしまうの」
「でも、それは猫の習性だから…」
いくら動物を飼ったことがないとはいえ、外出する猫の習性くらい、ぼくも知っていた。
そして、このときまで、ぼくは、生き物の自然な習性をだれも止めることはできない、と思っていたんだ。
「猫の習性は分かっているけれど」愛美さんは言った。「だからこそ、注意してあげないと。外には野良猫がいっぱいいるから、ケンカしてケガでもしたら困るでしょう。傷口から病気が移るかもしれないし。
それに、最近はこの辺りも車の往来が激しいわ。轢かれでもしたら、それこそたいへん。うかつに外に出して万が一のことがあったら、この子がかわいそう。そうなったら私も悲しいし、この子に苦しい思いをさせたくないの。
犬みたいに紐でつないでおくのは確かに不自由だけど、死んじゃうよりずっといいわ。死んじゃう方がずっとかわいそうよ」
愛美さんはミイを赤い紐ごと抱き上げ、頬ずりした。ミイは、口を開いたものの、鳴くまでにはいたらず目を細めてされるに任せた。
「一日中、こうして柱につないでいるんですか?」
「まさか。夜に家中の戸を閉め終わったら、紐は解いてあげているのよ。さすがに一日中つながれているのは、かわいそうだもの。家の中なら安全だし、自由に遊ばせてあげているわ」
愛美さんは、苦笑まじりで高らかに語った。優しく細めた瞳が、きらきら輝いている。あいかわらずきれいな人だ。
でも、ぼくはそのとき、自分の身体の中が急に空っぽになったよう感じていた。あれほど賑やかだった胸の中の鈴が、一気に消滅する。愛美さんの澄んだ声も瞳のきらめきも、空っぽの暗闇の中、重く沈んだ。
ただ、光の中の美しい庭だけは見失っていなかったから、すがる気持ちで言ったんだ。
「でも、庭の中では、遊ばせてあげているんでしょう?」
「いいえ」愛美さんは、即答だ。「ときどき、庭にも野良猫や近所の猫が入ってくるのよ。危ないから、家の中だけで遊ばせているの」
愛美さんの言葉を示す通り、猫の紐は、せいぜい一メートルの長さしかない。どんなにがんばっても、縁側にさえ届かない。
半径一メートルの世界で、猫は日中を過ごしていた。全開の庭園を前にしながら。
猫の小さな上背の位置、丸い瞳で見渡せば、庭はパノラマにさえ見えるだろうに。晴れている日はなおさらだ。
ぼくは、この庭園に憧れながらも、どしゃぶりの雨で外に出られなかった日々を思い出した。晴れることをひたすら待ち望んだ。晴れて、自由に外を駆け回ることばかり考えていた。
自由に、外へ。
猛烈な苛立ちが込み上げた。熱いもやもやしたものが、身体の中で煽動している。
大声で怒鳴りたい衝動にかられる。だけど一方で、胸が重くて苦しくて、その場にしゃがみ込んでしまいそう。