猫の紐
同じ気持ちのはずと思い、翼朗さんに以心伝心でグッドサインを送った。しかし、意外にも翼朗さんは辞退したのだ。
「いや、お気持ちだけいただいておきます。これからこいつの宿題を手伝わなければならないものですから」
「あら、そう。では、今度いつでもぜひ遊びにいらっしゃい。翼朗さんの甥御さんなら大歓迎よ」
せっかくの厚意をむげにされたのに、愛美さんはあいかわらず優しく微笑んでいる。良い人だ。
宿題なんて家から持って来ていなかったし、普段は勉強の「べ」の字も言わないのに、翼朗さんは急にどうしちゃったんだろう、とぼくは不思議に思った。
チリン。
鈴の音が耳にヒットした。
愛美さんの涼やかな声ではなく、本物の鈴の音だ。
「ニャア」
愛美さんの足元から、拳大の顔が覗いた。
耳としっぽと顔の真ん中が黒い――シャム猫だ。小猫から中猫になる途中といった感じだったが、子供らしいくりくりした丸い目が好奇心に光っている。
「ニャア」
愛美さんを見上げたときに鳴いた口から、真珠のような八重歯が覗いた。鳴いたのと一緒に、首の鈴がチリチリ鳴る。
「かわいい!」
ぼくは思わず声を上げた。
愛美さんが、猫をミイちゃんと呼び、抱き上げる。
「継介くん、猫、好き?」
「大好き!」
猫も犬も、動物は何でも大好きだ。お母さんが動物を好まないので、ペットは飼えないけれど、猫や犬は、いつもぼくの憧れだった。
「そう。だったら、よけいにいらっしゃい。ミイと遊んでやって」
愛美さんは、よしよしと小猫に頬ずりした。猫の柔らかな毛が、ふわっと愛美さんのなめらかな肌に滑る。
猫も愛美さんも、なんてかわいいんだ。
絶対、また遊びに来よう。愛美さんに会って、猫と遊んで、よく冷えたアイスティを飲むんだ。
愛美さんが許してくれたら、あのきれいな和風庭園で猫と遊ぼう。敷石を跳び跳び、駆け回りたい。
「それでは失礼します」
急ぐ用事があるわけでもないのに、翼朗さんはぼくの腕を引っぱり慌てて出ていった。
ぼくらにつられたのか、猫が愛美さんの腕から這い出し、飛び降りようとした。
しかし、愛美さんはすんでのところで猫を抱き戻し、小猫が嫌がっても腕をほどかなった。
「だめよ、ミイちゃん」
と、ほんの少し強い口調で愛美さんが言ったのを、ぼくは、向けた背中に微かに聞いた。
シンデレラがもとの灰かぶりに戻った落差のアパートに帰るなり、翼朗さんは大の字に寝転がった。
「クカァ!」と妙なため息を吐く。
「どうしたの、翼朗さん?」
すると翼朗さんはたっぷり拗ねて言った。
「おまえはいいよなあ。『遊びにいらっしゃい』なんて言われちゃってさ。お子様が羨ましい」
「だったら、素直にあがらせてもらえば良かったじゃないか」
「だって緊張するじゃんかよ!俺はいつも愛美お嬢さんの前に出ると、嬉しいけれど緊張しちゃって、水に潜っているときみたいに息が続かないんだ。ガキにはこの繊細な気持ちは分からないだろうが…」
そこで、ぼくはすかさず言ったんだ。
「翼朗さん、愛美さんのこと、好きなんだね」
すると、翼朗さんは大の男のくせして、耳まで真っ赤になった。
でも、否定したりなんかしないで、
「愛美さんは、俺のマドンナなんだ。星や花みたいに可憐できれいで、優しくてさ」
と、素直に言った。
ぼくが肯くと、翼朗さんは、細い目がいよいよ線になってしまうくらい嬉しそうに笑う。つくづくロマンチストな男だ。
ぼくも嬉しかった。翼朗さんが子供のぼくに、てらいもなく恋心を語ってくれたことで、しかも好きな女性を見せに連れていってくれたことで、翼朗さんの心の中に入れてもらっていることを実感したからだ。
嬉しくて嬉しくて笑顔が隠せず、からかわれていると勘違いした翼朗さんに、コツンと頭を小突かれた。
そして、残りの夏休み、新しい計画ができたことに、胸どころか身体中がリンリン高鳴ってうるさいくらいでいた。
和風庭園、きれいな愛美さん、かわいい猫。
今年の夏休みは、素敵なことばかりだ。
愛美さんの澄んだ声と猫の首輪の鈴音を思い出すにつけ、ぼくの中の鈴も増えていく。ついにはジャラジャラと鈴の大合唱となり、ぼくはうっとり幸福な気分に満ちた。
翌日は雨だった。
その翌日までも雨だった。
そのまた翌日も雨で、ぼくは楽しみにしていた計画の出端をくじかれ、いじけた。
翼朗さんは、「明日も雨だったら、俺は着るものがなくなる」と冷や汗をかいて、水滴おびただしい窓ガラスに向かって手を合わせた。
すると、翌日は、待っていました、快晴!
三日間洗われ通しのおかげで、空から地上まで空気は澄み渡り、木も家も電柱も新品で揃えられたように、すっきり浮き上がって見える。
「ケースケ、しっかり洗濯しとけよ」
と、大慌てで勤めに出かけた翼朗さんのために、今朝は、お日さまの恩恵を受ける作業、つまり洗濯と布団干しが最優先事項で最重要任務となった。
しかし、今日ばかりは家事はさっさと終わらせて、午後には例の計画の実行――愛美さんのところに遊びに行くつもりでいた。それを思うと、ドキドキして手が震え、洗濯物の皺がうまく伸ばせない。
計画に心を奪われながらも、ぼくは窓の汚れに気がついた。窓に埃まじりの雨筋がいくつも走っている。
翼朗さんの空と星の入り口が台無しだ。
だから、はやる気持ちを抑え、これだけはしっかり拭いておくことにした。
窓に雑巾を当てていると、目の端にふと白いものが過った。
見覚えのあるシルエットに、ぼくは窓の下、アパートの前の通りを凝視した。
白いワンピースの女の人が、日傘を差して歩いている。
愛美さんだ。
きれいに伸びた姿勢で迷いもなく、駅の方へ行ってしまった。
愛美さん、朝からお出かけ。もういない。
雑巾がぼくの手からするりと抜けて、窓辺に落ちた。愛美さんがいなければ、猫も庭もアイスティだってナシだ。ぼくは窓ガラスに額を当て、ため息をついた。
空は青く高く、お日様が天の中央に来るまでにはまだ間がある。予定がなくなった夏の日は、特に長い一日になりそうだ。
ところが、午後のぼくはラッキーだった。
彼女が帰ってくれば、おうちにあげてくれるかもしれない――それを期待して、愛美さんの家の前を何度も往復もしていたおかげだった。
日はさんさん、風は止まり、頭に湯気を感じる。晴れたとたん、さっそくいつもの夏が返っていた。ぼくは、また日焼けしただろう。
さすがに暑さにまいり、犬みたいに舌を出して喘いでしゃがんでいたところ、地面に影が差した。顔を上げると、日の光を背中に受けた白いワンピースの女性、愛美さんが、日傘を差して立っていた。
「継介くん?まあ、大丈夫?」
日傘の影の中、くっきり二重の黒い瞳が、心配そうにぼくを見つめた。
話はとんとん拍子に進んだ。見事、愛美さんの家にあがり込むことに成功したんだ。
「継介くん、いくら元気だからって、帽子もなしにこの日照りを歩いていたら、日射病になっちゃうわ」