猫の紐
翼朗さんは、それを笑いはしなかった。掃除の仕方、洗濯の仕方、料理の仕方を、ぼくに丁寧に教え込んだ。
ぼくは、雑巾で拭くと畳につやが出ること、洗濯をすると汚れが落ちて石鹸の香りが移ること、水を沸かして味噌と野菜を入れると味噌汁に仕上がって食べられることを、知った。
そして、翼朗さんが、全然怖くなんかない、優しい人だということを知ったんだ。
「ケースケ」とぼくを軽薄に呼び、細い目がニヒヒと笑う。
翼朗さんは、板前の見習いだからとても忙しかったけれど、空いたわずかな時間、それと疲れているはずの日曜日、ぼくの相手をしてくれた。
キャッチボールをしようにもボールとミットがないので、二人でスリルにドキドキしながら、素手と石コロで投げ合った。
公園の水飲み場や神社の御手洗場に出くわすと、必ずどちらかが水かけの先制攻撃をしかけ、二人でびしょ濡れだ。神主がすっ飛んで来て怒鳴る。
そのまま銭湯に行くと、今度は番台のおばあちゃんに「いい歳して、何をやっているんだい」とたしなめられた。
ようやく夜風が入ってくる時刻になると、翼朗さんは、好きな本の話や、思い出に残る映画の話をした。
翼朗さんはお金がないので、本も映画も今流行りのものではなかったが、彼の話は懐かしく、また温かく、不思議と惹き込まれた。
翼朗さんと一緒にすること、翼朗さんが教えてくれること、翼朗さんの好きなこと、翼朗さんの話――要するに、翼朗さんに関係することなら、ぼくは何でも気に入った。
翼朗さんはぼくの好みを聞いても、ぼくの今までの生活については何も聞かなかった。
翼朗さんも自分の身の上の話をしなかった。勘当されているから、言いにくかったんだろう。
もちろん会話のないときもある。しかし、タバコの焦げ跡だらけの四畳一間は居心地が良かった。
翼朗さんがいない日中、ぼくはきちんと家事係をまっとうしていた。
料理も洗濯も掃除も、家事には不思議な達成感があって、ぼくは嫌いではなかった。掃いて埃のなくなった畳、洗ったあとのこするとキュッキュと鳴るお茶碗、ぼくが作る味噌汁に「良い匂いだね」と声をかけてくれるアパートの住人――家事の成果は、ぼくをいつも得意にさせた。
が、しょせんは貧乏人の狭い所帯、家事だけでは一日は潰れず、夏の時間はたっぷり余る。
本屋で延々マンガを立ち読みしたり、橋に落書きしたり、散歩ついでに飼い犬をからかい、たまたま放し飼いされていた犬に追いかけられたり、パンツ一枚で川を泳いでみたり、そのときどき、やりたいままに過ごした。
都会に比べて日差しを遮るものが少ないから、ぼくはすぐ真っ黒に日焼けした。
「空の中」
と、翼朗さんの言葉を思い出し、蒸し風呂のような部屋の中、カーテンのない全快の窓下で昼寝して、よけい真っ黒になる。
真っ黒な自分が、なぜか嬉しかった。
あちこちの木から響くセミの鳴き声と、日差しの陽炎が重なって、この夏の日が永遠に続くように思う。
ただ、何か忘れ物をしている感覚が、ふと蘇る。
すると、夏の永遠が止まる。
でも、翼朗さんの窓の青空に吸い込まれて、不安はかき消えてしまうのだった。
勉強なんてまるきりしなかったけれど、誰も怒らなかった。ぼくに指図する者も、むやみにかまう者も、いない。
家事と自由と永遠と、兄貴分の細い目の笑顔、今年の夏休みは最高だ。
日曜日、ばかにニヤニヤして、翼朗さんは言った。
「ケースケ、家賃を払いに大家のところに行くから、おまえも来いよ」
家賃を払うのに何が嬉しいんだろう?
人見知りの強いぼくには迷惑な話だったが、翼朗さんはやけにハイで、ぼくを無理やり連れて出かけた。
アパートの大家は、アパートのすぐ裏手に住んでいた。
大家の家は二階建ての大きな日本家屋だ。この辺りの地主で、他にもいくつかアパートや不動産を経営するお金持ちらしい。
庭も純和風で、庭園と呼ぶにふさわしい造りだった。定期的に植木屋が通っているのだろう、すべての庭木は展示品さながらにすっきり刈り込まれている。
水を撒いたばかりらしく、ぬれた芝生が日に反射してキラキラ光っていた。丸い敷石が縁側から池まで点々と続くのを見て、敷石を渡り歩きたい衝動にかられ、ぼくはわくわくした。
戸の開け放たれた広い玄関から、翼朗さんが「ごめんください」と声をかける。すると、
「ただいま参ります」
と、澄んだ女性の声が返ってきた。
翼朗さんは、小声で「ラッキー。ビンゴだ」と呟き、ぼくに親指を立ててグッドサインを寄越した。
「お待たせしました。あら…」
女の人が出て来た。とてもきれいな人だ。
白いワンピースを痩せた身体にすっきり着こなし、長い髪を後ろで束ねている。首の白さと華奢さとが強調され、なんだか眩しい。
ぼくは思わず手をかざし、狭まった視界から彼女を見つめたが、眩しさには変わりなかった。
翼朗さんとの男所帯が普通になっていたところに、久しぶりに女の人を見た気がした。
実際はこの郊外の町にも若い女性はいたけれど、彼女を目の前にして、久しぶりに女性的ものに触れた気がしたんだ。庭への憧れも吹っ飛び、ぼくはドギマギした。
「愛美(まなみ)お嬢さん、こんにちは。今日は、今月のお家賃を持って参りました」
ぼくがここに来て、はじめて聞く翼朗さんの丁寧語だった。翼朗さんたら、瞳が凛と輝き、頬が薄く紅潮している。
愛美お嬢さん、と呼ばれた女の人は、にっこり微笑んだ。白いバラがつぼみを一気に開いたように、清楚であでやかだ。
「それはどうも。翼朗さんは、いつもお家賃もまじめに入れてくださるって、母も感心していました」
「いやあ、なに、当たり前のことですよ。私の方こそ、いまどき銀行振り込みが当たり前なのに、手数料を節約したくて手渡しでお願いしているなんて…恥ずかしい限りです」
と、翼朗さんはしきりに頭をかいて照れている。
そりゃこんなにきれいな人がいたんじゃ、家賃でも何でもせっせと持ってくるさ。家賃手渡しの理由は、本当に節約のためだけか?ぼくは、翼朗さんの不謹慎さに呆れた。
ところが、
「こちらの男の子はどなた?」
愛美さんがぼくのことを指して言っているのに気づいて、ぼくは息を飲んだ。翼朗さんのことを笑っている場合ではない。
「私の甥っ子の継介です。夏休みなので遊びに来ています。ご挨拶が遅れて…ほら、継介、ご挨拶をしなさい」
愛美さんの前だと、いつもの軽薄な「ケースケ」が、起立した「継介」にもなる。
翼朗さんは、強引にぼくの頭を押し込んだ。ぼくは「どうも…」と言ったつもりだったが、唇がそう動いただけで、愛美さんには届かなかったようだ。
しかし、愛美さんはぼくににっこり微笑みかけてくれた。
「継介くんとおっしゃるのね。よろしくね、継介くん」
鈴の音の涼しげな響きに似た声が、ぼくの名前を呼んだので、うっとりだ。あっけなく「翼朗二号」となる。
「お近づきのしるしに、あがっていらしたら?アイスティでもご用意しますわ」
うれしくて、ぼくはさっきの翼朗さんみたいに「ラッキー」と心の中でつぶやいた。