猫の紐
あぶしていたアタリメの良い匂いがしてきた。優太さんはさっそくアタリメにマヨネーズをつけ、もぐもぐ頬張りながら言った。
「元気だぞお。勘弁してほしいくらいだ」
目じりを下げ、満足そうに優太さんは微笑む。
俺は安心した。
優太さんには、五歳になる一人息子の愛知くんがいる。
が、この優しく穏やかな優太さんが、以前は、なぜか自分の子供のことを極力語ろうとしなかった。
今みたいにだれかに尋ねられても、優太さんは困った顔をして、わざとらしいまでに話題を変えてしまう。照れているわけでもなく、子供の話になるのを明らかに避けていた。
子煩悩そうに見えるだけに、俺はずっと違和感を持っていたのだ。日香とうまくいっていないのかと心配もした。
しかし、優太さんの家に遊びに行くと、あいかわらず二人は仲が良かったし、優太さんは愛知くんの面倒をよく見ていた。愛知くんも優太さんにくっついて回っていた。仲の良い幸福な家族に見えた。
それでも俺は胸騒ぎを隠しきれず、いつか聞こう聞こう思っていた。
ところが、そうしているうちに、優太さんの態度が変わった。
柔らかくなった。
優太さんは、誰にでも優しいが、ふと他人を遠ざけようとする癖がある。良く言えばシャイ、正直に言うと他人行儀。それを感じ取っているのは俺だけかもしれないが。
とにかく、少し前の優太さんには、人に対して不自然にかまえている部分が確かにあったのだ。
が、最近はそういったところが少なくなり、全身に余裕がにじんでいる。
そして、子供のことを嬉しそうに語る。
優太さん家族で、何かあったのかもしれない。
優太さんが児童養護施設育ちなのは、知っている。ほんのときどき、寂しそうに語ることがあったから。そのへんのところを、彼は、日香や愛知くんとゆっくり乗り越えたのかもしれない。
今度こそいつか聞きたいと思うが、とりあえずは優太さんが幸せそうなので、俺は満足だ。
そういえば、俺こそ、優太さんに聞いてもらいたい「話」があったのだ。でも、胸が塞がれて、今まで言えずにきてしまっていた。
それは、俺という人間の根底に触れる話でもあったから。
久しぶりに二人きりで飲んでいる。外の冷たい大気がフィルターとなり、雑音から静寂だけを抽出し、研究室に届けた。優太さんがストーブにかけてくれたヤカンが沸いて、シュンシュン音を立てている。それが身体の内部に通って、心地良い。
「あの話」をするには、絶好の機会ではないか。
白衣のポケットの中味が、外腿を刺激する。
そうだ、打ち明けなければならないことは、もう一つあるのだ。「あの話」と一緒に、ぜひそれも今日言ってしまいたい。
俺を気遣うこともなくアタリメを一人で食らう意地汚い優太さんに、俺は言った。
「優太さん、ちょっと聞いてくれる?」
「何だよ、改まって」
「前から話したいことがあってさ。たまには、年上の兄貴分に甘えさせてもらいたいし」
「いつも甘えているじゃないか。おまえの尻ぬぐいは、たいてい俺がしている。今さらなんだ」
ということで、俺は気兼ねなく「俺の物語」を始められることになった。
それは、同時に、俺を救ってくれた、「あの人」の物語。
俺は、白衣のポケットから、あるものを取り出した。
「優太さん、これを見てください」
「ああ、お守り袋か。いつもおまえが大事に持ち歩いているやつだろう?」
「一度、大事にしているわけを、優太さんに聞かれたよね。でも、そのときは、自分の中でも整理ができていなくて、言えなかったんだ」
しかし、今日は聞いてもらいたい。
「え、おい、いいのか?」
優太さんが慌てたのは、俺がお守り袋を開けて、中味を取り出したからだ。
「俺の神様です」
それは、年月に染まり、茶色に変色していた。
「紐の切れはし?」
俺はこくりと肯いた。
確かに、ただの紐の切れはし。しかし、俺をずっと支えてくれていたものだ。
「これから聞いてもらう話は、この紐の切れはしのことで…」
優太さんは俺から紐の切れはしを受け取り、細い目に近づけて見入る。
その様子を見たとき、突然、懐かしさがいっぱい込み上げて俺の胸を焦がしたのだ。過去の「記憶」よりも真っ先に当時の「感情」が蘇ってきた。
会いたい、と思った。
もう一度、「あの人」に、会いたい。
もう一度、あの熱い手に触れられたなら――。
ぼくは、この中学一年生の夏休みを、翼朗(よくろう)さんのところで過ごすことになった。
翼朗さんは、お母さんの末の弟で、ぼくにとって叔父さんだ。
歳は二十代後半、まだ若い。背が高く、筋骨逞しい男だ。
細い瞳は、表情豊かとはいえないけれど、笑うと子供のような愛敬に溢れた。
翼朗さんは、大学を中退し、板前の見習いをしていた。
名門を誇る家柄では、すこぶる評判が悪い。卒業間近なのに勝手に大学を中退し、こともあろうに料理人の世界に飛び込んだ彼は、銀行家や事業家ぞろいの親族の中では、勘当も同然だった。
だから、郊外の小さなアパートに独りきりで生活している。四畳一間、台所とトイレは共同、風呂はなし。部屋には、脚のぐらついているちゃぶ台が一つある程度。
服も二、三枚しかないTシャツを取り替えるくらいで、年中同じジーンズを履いていた。
そのくせタバコだけはやめられず、畳のあちらこちらにタバコの焦げ跡を作っている。
カーテンすらないことにぼくが呆れると、
「いいだろう。窓の下に寝転がると、昼は青空の中、夜は星空の中にいるみたいなんだぜ」
と、得意げに笑った。ロマンチストなのだった。
ぼくは、はじめ、翼朗さんが怖かった。
立派なガタイに五分刈りの風貌、さらに親戚からの悪い評判が、彼をヤクザのごとくぼくにイメージさせたんだ。
翼朗さんがうちに遊びに来るたびに、悪影響を受けるからと、お母さんはぼくを部屋に押し込んだ。
翼朗さんは、実家にさえ寄りつこうとしないらしいが、なぜか姉である、ぼくのお母さんのとこにはちょくちょくやってきた。お母さんは、翼朗さんに対して小言三昧だったが、翼朗さんはどこ吹く風だ。
塾へ出かけるために階段を下りてくるぼくに、「よお!」といつも明け透けに声をかけてくれたが、お母さんが防波堤になって、翼朗さんと満足に口をきいたこともなかった。
「お母さんにお金をせびりにきたに違いない」とぼくは思い込んで、彼を軽蔑さえしていた。
だから、翼朗さんのアパートに連れられてきた初日は、誘拐されたのかと怯えた。大人の男に不慣れなせいで、おっかなびっくり若い叔父を盗み見た。
でも、数日すると、ぼくは翼朗さんにすっかり打ち解けていたんだ。
翼朗さんは、ぼくを「ケースケ」と少し間延びして呼び、連れてきた初日からいっさいの家事担当に、ぼくを任命した。
ぼくは自分の部屋さえも掃除したことがない。何でも母さんがしてくれていた。それをいきなり働けと言われても、何をすべきなのか想像もつかない。
ぼくの頭には、数学の公式と、英語の文法と、読みはしない文学名と作者の名前、歴史の年代の語呂合わせしか入っていなかったから。