猫の紐
冷気の通り道みたいな廊下を小走りで滑り抜け、優太さんと俺は研究室に戻ってきた。
急いで石油ストーブに点火し、二人そろって手をかざす。
「一時か…今までの最長記録だな。継介、ごくろーさん」
と、暖気に気が緩んだのか優太さんは大あくびを披露した。
数時間前、お産中に意識がなくなった雌猫が、ここ、大学の動物病院に運ばれてきた。それからこの時刻まで、優太さんと俺でかかりきりだ。
帝王切開で五匹の赤ん坊は救えたが、一匹は、へその緒が首に巻きつき、窒息死していた。
俺は、ひどく落胆したのだ。
「ここに運ばれて来たときは、もう死んでいたんだろう。残りのが助かっただけ良かったよ」
優太さんは、ぽんと俺の肩を叩いた。
「次は助けような」
俺もため息まじりで肯いたものの…。
しっかりしろ、継介。ここが動物病院で、俺が獣医でいる限り、こんなことは今後もしょっちゅうだ。落ち込んでばかりはいられない。
ただ、今回、その死に方が、俺には辛かったのだ。
つい、白衣のポケットの中味をぎゅっと握りしめていた。
「一時かあ。終電に間に合わなかったなあ」
「優太さん、どうする?タクシーを呼ぶ?」
「外は寒いし、明日も早いから、帰るのが面倒臭くなっちゃったよ。久しぶりに研究室に泊まろうかな。継介は?」
「優太さんが泊まるなら、俺も泊まるよ」
「じゃ、互いに『帰らないコール』を入れるか。連絡なしだと、奥さんたちはやたら怒るからな」
というわけで、優太さんと俺は、しこしこと自宅へ電話をかけた。ところが、奥様二人は寝ていたところを起こされた不機嫌な声で、「あっそう」と言っただけだ。つれない。
「優太さん、明日の授業の準備はやった?」
優太さんは、俺より五歳年上の、獣医学部病院科の先輩だ。
大学助手という職位柄、教授や助教授の下働きをさせられている。
緊急だったり教授が苦手な内容の手術だったりすると、夜中だろうが学会前だろうが押しつけられてしまう。学生の研究や国家試験の面倒まで見ているから、毎日帰宅も遅いのだ。ごくろうさまである。
そんな苦労人、優太さんは晴れやかな笑顔で言った。
「まだやっていない。だから、おまえも手伝うんだぞ」
大学院を卒業し、ようやく講師として大学をうろちょろしている俺は、「教授―準教授――助教授―助手―講師」のカースト制度の底辺で、下働きの下働きをやっているのだった。
緊急だったり教授が苦手だったりして助手が押しつけられた手術があると、夜中だろうが学会前だろうが助手に付き合わされ、助手と一緒に学生の面倒まで見ているから、毎日帰宅も遅く、ごくろうさまなのだった。
「その前に何か食いましょう。学生がいろいろ持ち込んでいるから」
俺たちは棚や冷蔵庫を物色しはじめた。下級生は上級生に何を食われても文句は言えないのが、わが獣医学部の伝統である。
「野村のやつ、大吟醸を隠し持っているぜ。バカだなあ、飲んじゃえ飲んじゃえ」
「アタリメ見つけた。アルコールランプであぶろう」
ということで、男二人の酒盛りがはじまった。
「ここで飲むの、久しぶりだな」優太さんが言った。「独身のときは、よく徹夜で飲んだけどな」
俺が獣医学部病院科に入ったとき、先輩だから当たり前だけど、すでに優太さんはここにいた。
そのころの優太さんは大学院生だったが、みんなの面倒見役として定着していた。昔から人が好いのだ。
俺はできが悪くて、優太さんに一番世話になったクチである。卒論も獣医師国家試験も、優太さんの協力なしでは、かなりやばかった。
大恩人だ。
おまけに優太さんと俺は、不思議とウマが合った。同じ学年の奴らとよりも、優太さんと飲んだ記憶の方が多いくらい。あんまり仲が良いので、変な噂も流れた。
残念ながら俺たちはどちらもヘテロだったので、今はそれぞれかわいい伴侶もいて、幸福な生活を送っている(ほっ)。
実は、俺たちは、一人の女を取り合った仲でもある。優太さんの現在の奥さんをだ。
優太さんの奥さん――日香(ひかる)と俺は恋人同士だったが、ある日、彼女は泣きながら言った。
「優太さんを好きで苦しい」と。
数日間、そりゃもうそのことばかりを悩んだ。優太さんとも日香とも顔を合わせられず、一人もんもんと部屋に引きこもった。俺と日香は付き合い始めて間もなかったが、俺は十分に日香が好きだったので、優太さんに嫉妬し、憎んだ。
なぜ、俺ではなく、優太さんなんだ。なぜ、他の奴ではなく、よりによって優太さんを愛したんだ。俺にとって、一番大切な人を、なぜ俺に憎ませるんだ。おまえが愛しているからという理由で、俺は優太さんを憎みたくないのに。
一番憎みたくない、一番大切な人。
ようやく引きこもりを解除して、憔悴しきった顔で大学に出てみると、待っていましたとばかりに優太さんが俺に近づいてきた。
優太さんは、「すまん、日香が好きだ」と一言、拳を自分の頬に当て、俺に殴れと促した。
俺はなんとか気持ちの整理をつけていたのに、優太さんもずいぶん時代かかったカッコツケをする。
とはいえ、兄貴分を殴るチャンスなんて一生に一度きりかもしれないので、せっかくだから気持ちよく殴らせてもらったのだった。
これで、すべてチャラだ。俺の拳もしっかり痛んだが、一方で心の痛みを頬へのダメージとして受けてくれた男が、地面に転がっていた。まったくかっこつけすぎる。
と、まあ、友情が恋愛に勝った話。
確かに日香を好きだったのに、あんなにもあっさり身を引いたのは、俺も日香と同じだったからだろう。
お互いよりも優太さんが好きで、大事だったのだ。失いたくないのはお互いではなく、優太さんだった。俺には日香の気持ちが情けないほど理解できていた。俺が女だったら、今回のように身を引くどころか、絶対ゆずらなかったね。
俺のこの優太さんへの心酔は、何なのかなあ。
性格が良い人、優しい人なら他にいるし、男気溢れる奴だっていっぱいいるのに、俺は俺の一生や大事なものを分かち合う友達は、優太さんでなくてはいけない、と思い込んでいる。
優太さんの細い細い目を見るたびに、そんなことを猛烈に自覚する。
一方、優太さんも、俺みたいな奴のどこを気に入ってか、とことん面倒見ちゃるぞと、思ってくれているらしいのだ。
優太さんは他の人間には犬好きの優しいお兄さんだが、俺といるときは後輩の大事な酒を飲む悪党になってしまう。いや、悪ガギかな。たぶん、明日、酒の持ち主にばれたら、「知らなかったよ。継介に誘われるままにさ」と、俺だけのせいにして、細い目でニヒヒと笑うのだ。
でも、俺は良しとするだろう。それも、俺にだけ見せる顔だからだ。
人の関係とは不思議だ。本人たちも理由は分かっていないのに、どこか根底の部分で惹かれ合う、そんな絆がある。
濃い血のつながりを持つ者とは分かり合えない場合もあるのに。
――いや、同じ血のつながりの枠にいたからこそ、俺を理解し、救ってくれた人がいた。
その人は、もういないけれど。
「愛知くんは元気?」
急いで石油ストーブに点火し、二人そろって手をかざす。
「一時か…今までの最長記録だな。継介、ごくろーさん」
と、暖気に気が緩んだのか優太さんは大あくびを披露した。
数時間前、お産中に意識がなくなった雌猫が、ここ、大学の動物病院に運ばれてきた。それからこの時刻まで、優太さんと俺でかかりきりだ。
帝王切開で五匹の赤ん坊は救えたが、一匹は、へその緒が首に巻きつき、窒息死していた。
俺は、ひどく落胆したのだ。
「ここに運ばれて来たときは、もう死んでいたんだろう。残りのが助かっただけ良かったよ」
優太さんは、ぽんと俺の肩を叩いた。
「次は助けような」
俺もため息まじりで肯いたものの…。
しっかりしろ、継介。ここが動物病院で、俺が獣医でいる限り、こんなことは今後もしょっちゅうだ。落ち込んでばかりはいられない。
ただ、今回、その死に方が、俺には辛かったのだ。
つい、白衣のポケットの中味をぎゅっと握りしめていた。
「一時かあ。終電に間に合わなかったなあ」
「優太さん、どうする?タクシーを呼ぶ?」
「外は寒いし、明日も早いから、帰るのが面倒臭くなっちゃったよ。久しぶりに研究室に泊まろうかな。継介は?」
「優太さんが泊まるなら、俺も泊まるよ」
「じゃ、互いに『帰らないコール』を入れるか。連絡なしだと、奥さんたちはやたら怒るからな」
というわけで、優太さんと俺は、しこしこと自宅へ電話をかけた。ところが、奥様二人は寝ていたところを起こされた不機嫌な声で、「あっそう」と言っただけだ。つれない。
「優太さん、明日の授業の準備はやった?」
優太さんは、俺より五歳年上の、獣医学部病院科の先輩だ。
大学助手という職位柄、教授や助教授の下働きをさせられている。
緊急だったり教授が苦手な内容の手術だったりすると、夜中だろうが学会前だろうが押しつけられてしまう。学生の研究や国家試験の面倒まで見ているから、毎日帰宅も遅いのだ。ごくろうさまである。
そんな苦労人、優太さんは晴れやかな笑顔で言った。
「まだやっていない。だから、おまえも手伝うんだぞ」
大学院を卒業し、ようやく講師として大学をうろちょろしている俺は、「教授―準教授――助教授―助手―講師」のカースト制度の底辺で、下働きの下働きをやっているのだった。
緊急だったり教授が苦手だったりして助手が押しつけられた手術があると、夜中だろうが学会前だろうが助手に付き合わされ、助手と一緒に学生の面倒まで見ているから、毎日帰宅も遅く、ごくろうさまなのだった。
「その前に何か食いましょう。学生がいろいろ持ち込んでいるから」
俺たちは棚や冷蔵庫を物色しはじめた。下級生は上級生に何を食われても文句は言えないのが、わが獣医学部の伝統である。
「野村のやつ、大吟醸を隠し持っているぜ。バカだなあ、飲んじゃえ飲んじゃえ」
「アタリメ見つけた。アルコールランプであぶろう」
ということで、男二人の酒盛りがはじまった。
「ここで飲むの、久しぶりだな」優太さんが言った。「独身のときは、よく徹夜で飲んだけどな」
俺が獣医学部病院科に入ったとき、先輩だから当たり前だけど、すでに優太さんはここにいた。
そのころの優太さんは大学院生だったが、みんなの面倒見役として定着していた。昔から人が好いのだ。
俺はできが悪くて、優太さんに一番世話になったクチである。卒論も獣医師国家試験も、優太さんの協力なしでは、かなりやばかった。
大恩人だ。
おまけに優太さんと俺は、不思議とウマが合った。同じ学年の奴らとよりも、優太さんと飲んだ記憶の方が多いくらい。あんまり仲が良いので、変な噂も流れた。
残念ながら俺たちはどちらもヘテロだったので、今はそれぞれかわいい伴侶もいて、幸福な生活を送っている(ほっ)。
実は、俺たちは、一人の女を取り合った仲でもある。優太さんの現在の奥さんをだ。
優太さんの奥さん――日香(ひかる)と俺は恋人同士だったが、ある日、彼女は泣きながら言った。
「優太さんを好きで苦しい」と。
数日間、そりゃもうそのことばかりを悩んだ。優太さんとも日香とも顔を合わせられず、一人もんもんと部屋に引きこもった。俺と日香は付き合い始めて間もなかったが、俺は十分に日香が好きだったので、優太さんに嫉妬し、憎んだ。
なぜ、俺ではなく、優太さんなんだ。なぜ、他の奴ではなく、よりによって優太さんを愛したんだ。俺にとって、一番大切な人を、なぜ俺に憎ませるんだ。おまえが愛しているからという理由で、俺は優太さんを憎みたくないのに。
一番憎みたくない、一番大切な人。
ようやく引きこもりを解除して、憔悴しきった顔で大学に出てみると、待っていましたとばかりに優太さんが俺に近づいてきた。
優太さんは、「すまん、日香が好きだ」と一言、拳を自分の頬に当て、俺に殴れと促した。
俺はなんとか気持ちの整理をつけていたのに、優太さんもずいぶん時代かかったカッコツケをする。
とはいえ、兄貴分を殴るチャンスなんて一生に一度きりかもしれないので、せっかくだから気持ちよく殴らせてもらったのだった。
これで、すべてチャラだ。俺の拳もしっかり痛んだが、一方で心の痛みを頬へのダメージとして受けてくれた男が、地面に転がっていた。まったくかっこつけすぎる。
と、まあ、友情が恋愛に勝った話。
確かに日香を好きだったのに、あんなにもあっさり身を引いたのは、俺も日香と同じだったからだろう。
お互いよりも優太さんが好きで、大事だったのだ。失いたくないのはお互いではなく、優太さんだった。俺には日香の気持ちが情けないほど理解できていた。俺が女だったら、今回のように身を引くどころか、絶対ゆずらなかったね。
俺のこの優太さんへの心酔は、何なのかなあ。
性格が良い人、優しい人なら他にいるし、男気溢れる奴だっていっぱいいるのに、俺は俺の一生や大事なものを分かち合う友達は、優太さんでなくてはいけない、と思い込んでいる。
優太さんの細い細い目を見るたびに、そんなことを猛烈に自覚する。
一方、優太さんも、俺みたいな奴のどこを気に入ってか、とことん面倒見ちゃるぞと、思ってくれているらしいのだ。
優太さんは他の人間には犬好きの優しいお兄さんだが、俺といるときは後輩の大事な酒を飲む悪党になってしまう。いや、悪ガギかな。たぶん、明日、酒の持ち主にばれたら、「知らなかったよ。継介に誘われるままにさ」と、俺だけのせいにして、細い目でニヒヒと笑うのだ。
でも、俺は良しとするだろう。それも、俺にだけ見せる顔だからだ。
人の関係とは不思議だ。本人たちも理由は分かっていないのに、どこか根底の部分で惹かれ合う、そんな絆がある。
濃い血のつながりを持つ者とは分かり合えない場合もあるのに。
――いや、同じ血のつながりの枠にいたからこそ、俺を理解し、救ってくれた人がいた。
その人は、もういないけれど。
「愛知くんは元気?」