猫の紐
翼朗さんは力強く首を振る。少し怒っているくらいに。
「まさか。姉さんはそれを自分で乗り越えなくてはならなかったのに、おまえにすがってしまった。その結果、ケースケが一番苦しんだ。子供に自分の不幸を清算させようなんて、最低だよ」
翼朗さんの言葉に、ぼくは自分がどれだけ自分自身を責めていたか、気がついた。
お母さんの悲しみは、ぼくのせいなのだと、どこかで思っていた。ぼくが良い成績を取らないから、ぼくがお母さんの言うことをきかないから、ぼくが悪い人間だから、お母さんが不幸なのだと、後ろめたさでいっぱいだった。
悪い人間のぼくには自由になる資格はないと、一人で辛く思い込んだんだ。
その重みの輪を翼朗さんは一つ一つ外してくれた。心が軽くなるたびに涙が込み上げてくる。
大きく無骨で熱い手がぼくの頭に置かれた。くしゃくしゃと撫でながら、「おまえは何も悪くない」と翼朗さんは言った。
その一言に、ぼくは自由になれたんだ。
太陽が薄赤く燃え出した。それを見て、ぼくらは少し涼しくなったことにやっと気がついた。暑いのは、身体の内からほとばしる熱のためだった。
翼朗さんは言った。
「俺もおまえも、家の中で、家の人間に傷つけられた。
でもなあ、ケースケ、家族の中だろうと他人の中だろうと、傷つかない場所なんて、どこにもないんだ。
家の中で宝物のように大事にされてきた俺は、世間に出てみると、ただのおぼっちゃんだった。まともに何一つできなくて、今の職場でもどれだけ怒られ殴られたことか。五年も働いているのに、いまだに下働き同然、てんで要領がつかめずバカにされているよ。だから、こんな風に育てた親を憎んだ。
でも、それは、自分のせいでもあったんだ。母さんの言う通りに生きるのは、確かに楽だった。自由になれないことを母親や家のせいにして、自立しようとせずに甘えていた。安楽をむさぼって、思い通りにならないことを人のせいばかりにして生きていた。
そのツケを今払っているわけさ。生きるというのは、厳しいよ。
かといって俺はこれで良かったと思っている。怖いけど、傷に一人で耐えられるようでないと、本当の自由にはなれない気がするから。人はどこにいても傷つくというのなら、俺は、自由になるために傷ついていきたいよ」
「どんなに傷ついても、人に翼は生えないよ」
ぼくは、自分のあまりにもキザな言い回しにびっくりした。
そして、翼朗さんにとても残酷なことを言ってしまったことにはっとしたんだ。
しかし、翼朗さんはぼくの言葉なんかでは傷つかなかった。
「翼か…。俺も分かっているんだ。母さんは、俺に『翼朗』と名前をつけてくれた。ちゃんと自由の意味を知っている人だったんだ」
「…翼朗さんは、おばあちゃんを許せる?」
翼朗さんは返事をしなかった。夕日の逆光を浴び、川の向こうを眺めている。ぼくはそのとき、何かに焦がれてやまないときの人の瞳を初めて見たんだ。
またぼくの泣き虫がうずき出した。何かでごまかそうとして、ぼくは慌ててアンパンにかじりついた。
でも、逆光が眩しかったり、あんこの甘みにほっとしたりで、ぽろぽろと涙がこぼれてしまった。しゃくりまで込み上げ、止めることができない。
ひっくひっく胸と喉を上下させながらアンパンを口に押し込むぼくを見て、翼朗さんは「器用な食い方するやつだなあ」と感心している。
おかしいやら、泣きたいやら、おかげで苦しさが増した。
ほてった身体を、風が触る。涼しくて胸のすく風だ。翼朗さんの窓からはみ出した満天の星空からやって来たに違いない。
「それから夏休みが終わるぎりぎりまで俺は翼朗さんのところにいて、家に戻った。
母さんはあいかわらず過保護で、俺を宝物のように扱い、自分の思う通りに支配しようとしたよ。
でも、俺は、母親の言う通りにはならなかった。かといって二度と暴力に訴えることもなくなった。母親の無理強いにはちゃんと言葉で拒絶して、どんなに止められても外で友達と遊び回ったよ。勉強もしなくなって、成績はガタオチ。でも、いっぱい友達ができた。
母さんは毎日涙に濡れた。俺が暴力を奮っても家の中にいた頃の方が、彼女は幸せそうだった。そんな母さんを見ると、やはり辛かったな。つい自分を責めそうになる。そういう癖がついちゃっているわけだから。
でも、ときどき翼朗さんが来てくれたから、勇気づけられた。翼朗さんがいたから乗り越えられた。翼朗さんのところに行ってから俺が変わったもんだから、母さんにとって実の弟の翼朗さんは、すっかり宿敵になっちゃったけどね」
あいかわらずヤカンが湯気を吹き、研究室は温かく潤おしている。
優太さんは、俺が話している間、一言も口をきかないでいた。吸うタバコの煙だけが、主人そのままたおやかに揺れながら、大気に溶けていくばかりだ。
ただ、やっと口を開いて出た言葉には、祝福がこもっていた。
「おまえにそんな良い叔父さんがいたなんて、初めて聞いたよ」
と、細い瞳がやわらかな円を描いて微笑む。
話して良かった。何かに報われた気持ちでいっぱいだ。あの夏、翼朗さんにすべてを受け入れてもらえたときと、同じように。
「結局、母さんは俺を理解することはなかった。息子が自分の思い通りにならない理由が理解できない、というよりも認めたくなくて、そのジレンマに今もいろいろな神経症を起こしているよ。俺が結婚して家を出たときなんか、ヒステリーを起こして入院したんだぜ。まいっちゃうよ。
俺としては、せめて所帯を持つまでは母親と暮らすことが親孝行のつもりだったんだけど、虫が良い話かな。大学院までの金は、年がら年中留守の父親が出していたわけだし。家を出て独りで生きた翼朗さんみたいには、とてもできなかったなあ。優太さんみたいに、奨学金で勉強してきたわけでもないしさ。情けないの」
俺は自嘲気味に笑ったが、優太さんは首を振った。
「それが、おまえの優しさなんだ。翼朗叔父さんや俺とは違う、おまえのやり方だったんだよ」
「はは。優太さんこそ優しいね」
「俺はさ」優太さんは、タバコを灰皿に押しつぶして言った。「父親に捨てられて、独りだったから、家族というものに憧れていたよ。家族さえいれば、すべての不幸から守られると思った。
でも、そうじゃない場合もあるんだよな。『どこにいても人は傷つく』――おまえの叔父さんの言う通りだ。だけど、たとえ傷つく場所の一つであっても、家族や家庭は、最後の最後で、人を支える場所であってほしい」
そして優太さんは、鼻をかきながら照れくさそうに白状したのだ。
「息子の愛知をさ、ようやく素直に愛していると思えるようになったんだ。愛知にとって家庭を傷つくだけの場所にせずに済んだよ」
「分かっていたよ。優太さんの変化」
「そうか、分かっていたか。よし」
優太さんは感慨深げに何度も肯いた。まったくおかしな人だ。
俺は、優太さんの口から優太さんの幸福を確認できて、とても嬉しかった。
「で、翼朗叔父さん、今は?」
「ああ。人の倍苦労して、晴れて一人前の料理人になったよ。ハワイの日本料理店に呼ばれてチーフを任された」