猫の紐
「そりゃ良かった。ときどきはこっちにも帰ってくるんだろう?」
「いいや。現地で強盗に撃たれて、死んだよ」
優太さんは一息飲んで固まってしまった。申し訳ない。
「享年三十四歳、若いだろう。そういえば、優太さんと出会う少し前くらいだった」
と、自分で言って、俺は急激に泣きたくなった。
あの頃がオーバーラップしてくる。人生に頼るすべがなくなり、明日にでもこの世が終われば良いと思っていたとき、俺は優太さんと出会った。
あのときは気づかなかったが、今なら分かる。初めて会ったとき、優太さんの笑うと目がなくなってしまう笑顔に、俺は間違いなく失ったあの人を重ねたんだ。
そして、救われた。導かれたような巡り合わせだった。
俺はどうにか涙を持ち堪えて、翼朗さんのその後を語った。
「翼朗さんは、最後まで親戚とも母親とも和解することができなかった。
長いこと一緒に暮らしていた女性がいたけれど、結婚はせずにいた。彼女が子供の母親になるのが、怖かったんだ。翼朗さんは『母』という存在への嫌悪を振り捨てることができなかったから。
そこで別れ話は何度も出たけれど、彼女が翼朗さんのそばにいたかったから、別れはしなかった。一度だけ子供ができたが、翼朗さんの希望で諦めたんだよ。
翼朗さんの死後、その女性に会って聞いたんだ。でも、彼女は翼朗さんと一緒にいられて幸福だったと言ってくれた」
翼朗さんは独りで生きた強い人だったけれど、母親との傷だけは乗り越えられなかった。一生をその囲いの中にいて、逃れられなかった。
もう少し生きていれば、何か変わったかもしれない。でも、彼は逝ってしまったから。
優太さんは目を閉じ唇を噛んだまま、天井を仰いだ。同情してくれているのだろうが、ふと何かに後悔しているようにも見えた。
沈んだ空気がたまらなくなって、俺は極力明るい声を装う。
「ところで、この紐の切れ端なんだけど」
今となってはすっかり忘れられていた灰皿の横に転がっているシロモノに視線を注ぐこと数秒、翼朗さんは「あーあー」と記憶を呼び覚まして肯く。
そしてシロモノ――古く変色した紐の切れ端を掴み、俺に目を向けた。
「なるほど。これが、つながれた猫を逃がすため、おまえが切った紐か」
「残念でした。さっき話した通り、確かに俺は猫を逃がそうとしたけれど、紐を切ったなんて一言も言っていないよ。これ、ナイフかカッターみたいな刃物で切った跡があるだろう?俺はそんなものは使っていない」
「だったら、何でおまえが持っているんだ?おまえが切ったから、おまえが紐の切れ端を持っていたんじゃないのか?」
「これ、翼朗さんの遺品の中から出てきたんだ」
キツネにつままれたような優太さんの顔が期待通りだったので、俺は満足した。
「翼朗さんのハワイの自宅に残っていたんだ。なんでも、生前、お守り袋の中に入れて持ち歩いていたんだって。
思うに、猫の紐は幾重にも頑丈に結ばれていて、俺が緩めたくらいでは、ほどけようがなかったんだ。しかも俺は根性なしで逃げ出したから、そのあとのことは知らない。
あの日、俺がやろうとしていたことを、翼朗さんはどこからか見ていたんだと思う。俺が逃げ出したあと、翼朗さんはこっそり大家の家へ忍び込んで、手っ取り早く紐を切った。もちろん、猫を逃がす目的でね」
「だったら、何でそれをおまえにも大家のお嬢さんにも言わなかったんだ?自分のやったことを他人になすりつけるような人じゃないだろう?」
「猫はさ、俺にとって、『象徴』だったから。猫を自由にすることは、俺自身の自由への希望とイコールだった。それを翼朗さんは知っていたんだ。だから、わざと俺がやったことにしてくれた。俺が自信を持てるように」
すると優太さんは、懐かしいものを見るようにして言った。
「ずいぶん粋な男だな」そして改めて紐の切れ端を見つめる。「おまえだけの象徴なわけでもなかったんだな」
そう。翼朗さん自身が、自由や強さを願って身に着けていたんだろう。
同時に、俺との思い出も彼が愛しんでくれたのだと、信じたい。俺を救ったことで彼自身も癒され、ひとときでも自由になれたと思うのは、俺の自己満足だろうか。
優太さんは言った。
「大事なものじゃないか。さっさとお守り袋にしまえよ。俺が入れてやるから、貸してみろ、その『安産祈願』のお守り袋」
今度驚かされたのは、俺だった。
猫の紐の真相で、優太さんの意表をついて満足だったのに、最後には俺が裏を突かれて、優太さんの大逆転じゃないか。
しかも、このネタは、優太さんを驚かせたくて、最後の最後まで取っておいたのに。
そう。「俺の物語」のラストは、俺にも子供ができたことのお披露目をして、飾るつもりだったのだ。
「ばーか。俺は目ざといんだよ。いつも持っている『交通安全』のロゴが『安産祈願』に変わったことに、気づかない俺様ではないのだ。おまえの浅はかな考えなんて、すべてお見通しさ。あたしの不意を突こうなんて、百年早くてよ」
ほーほほほ、と突然おかまになって笑う誇らしげな顔が、とても悔しい。
ところが、急にまじめな顔になって、優太さんは俺に握手の手を差し出した。
「おめでとう。おまえもパパか」
細い目が、凛と強く温かい光を放っていた。
ありがとうございますと言いかけたつもりが、優太さんの握手を受け取るなり俺はついに泣き出した。
翼朗さんにすがりついて泣きながら大家の家を出た、あのときが蘇る。
産道を通り抜け、初めて世界に触れた衝撃に泣いたときよりも、ずっと多量の涙を流したに違いない。
でも、ぼくの涙よりも、翼朗さんの腕は熱かった。だからぼくは、すべてを委ねて泣けたんだ。
熱を出したときに額に置かれた無骨な手と、優太さんの手の熱さは変わらなかった。
この世界に傷つかない場所なんて、どこにもない。みんな何かにつながれ、閉じ込められている。
人に翼はないから、自由の空へは飛んでいけない。
でも、その代わり、人には熱い手がある。
熱い手が傷を癒し、熱い手が傷の連鎖を断ち切り、ケージの扉を開けるんだ。
そして、熱い手は、自由の系譜を伝えていく。
<おわり>