ハイビスカスの女
このまま立ち去るのは卑怯だと思ってキャビンを覗いた。彼女は横座りで泣いているようだった。僕は神妙に頭を下げた。
「非道いことしてスミマセン。謝って済むと思わないけど、ゴメンナサイ。」
それだけ言って立ち去ろうとしたとき、彼女が顔を上げた。
「気にせんでええんよ。・・貴方は若いんやから、うちも軽率やったし。」
僕を見て弱々しく微笑んだ。憔悴した顔が恥ずかしそうだった。僕は許されたと思った。淋し気にはにかんだ彼女が大人に見えた。
波照間行きフェリーに間に合った。
乗船した僕はどんより曇った石垣市街を眺めていた。赤土の丘陵地に濃緑のサトウキビ畑が広がり、灰色のブロック家屋と赤い琉球瓦の民家が混在している。ターミルは日焼けした地元民が行き交い、琉球方言が飛び交い、船荷の上げ下ろしが慌ただしい。どこかで僕を呼ぶ声が聞こえた。
波止場を見下ろすとKさんとA子であった。二人は仲直りしたのだろうか、見送りに駆けつけてくれたのである。長身のKさんにもたれたA子が手を振っていた。心なしやつれていたが、笑顔が吹っ切れたようであった。
海風にしなやかな黒髪とワンピースが翻っていた。彼女の周りは明るくなった。あらためて海風に揺らぐハイビスカだと思った。Kさんは彼女の腰に手を回していた。彼らは口々に叫んだ。
「元気でな~、連絡しろよ。」
「気をつけてね、京都で会おうね~」
今夜、彼らはやっと二人きりになれるのだと思った。
六
僕は波照間のサトウキビ畑で働き帰路の費用を稼いだ。
京都に帰ったのは年の暮れで、友達は進級を心配してくれたが、放浪に目覚めた僕は留年もやむを得ないと覚悟した。取りあえず次の放浪資金を稼がねばならなかった。
留守中にA子から連絡が入っていた。Kさんから別れたことを聞いていたから、彼女と会いたくなかった。二人で会えば怪しい関係になるのは目に見えていたし、僕は嵯峨野の女のトラウマから、経験豊かな女への拒否感があった。僕の方からあえて連絡しなかった。
正月行事が一段落した頃であった。A子から再び、実家にいるから出てこないかと電話が入った。かすれた甘い声は懐かしかったが、僕はバイトと後期試験で時間が取れないと断った。彼女はKさんとのリゾラブは終わったと言い、今は京都の外人講師と付き合っていると漏らした。僕は彼氏がいるのなら会っても良いかと思い、試験が一段落したら会うことを約束した。
冬の寒さが緩み、北野天満宮の梅がほころぶ季節であった。
京都の町は全国から集まる受験生でにぎわっていた。僕らは木屋町のカフェバーで会った。コンクリートの打ち放しに古材の柱と梁、和紙の照明で演出した和風モダンな店である。平日の昼間で閑散とした店内にジャズが低く流れていた。
半年ぶりに再会したA子は髪を短くしていたが、潤んだ大きな瞳といい、上気した艶やかな肌といい、以前に増して色香が溢れていた。彼女は素晴らしい恋をしていて、相手はきっと凄い男なのだと思った。
久しぶりの再会で嬉しかったのか、外人と恋をして報告したかったのか、彼女は年代物のワインを注文してよく喋った。彼女の実家は京都の古い神社であること、神社の生活は年中行事に追われて旅行に行く暇も無いこと、そんな生活が嫌で外国生活に憧れスチュアーデスになったこと、しかし今は国内線がもっぱらで海外は休暇でリゾートしているなど云々・・
彼女は京都的なもの、洗練されたもの、上品なものへの反発があって、素朴なもの、荒削りなもの、野性的なものに惹かれるのだと言い、グレーとブラックで統一されたお洒落な店内を見渡しながらぼやいた。
「ここはリゾートと同じね。お洒落で、快適で、気取って・・しかし何もない、空虚よ、退屈なんよ」とこぼし、Kさんとの出会いを語った。
「彼は長い航海に疲れて、うちらのいたマリーナに辿り着いたの。やつれて、薄汚れて、孤独だった。リゾートにそぐわなかったわ。まるでタイムスリップした落ち武者よ。」
「彼の存在は際立っていたわ。寡黙で誇り高く、外洋をさまよってきた野生のオーラが立っていたわ。」
ワインを飲み干すと、放浪で無精髭の伸びた僕を真っ直ぐ見つめた。僕は気押されて、彼女のグラスにワインを注いだ。グラスをもてあそびながら彼女は独りごちた。
「性は男が女に見る、女が男に見る幻想だって言うやない。うちはKさんに海の男のロマンを見たんよ。・・陸に上がればただの男よ。」
今付き合っている人はどうなんですかと訊くと、彼女の眼が輝いた。
「フランス籍の黒人なんよ。荒々しく昂然として、サバンナの乾いた大地の匂いがするの・・」
潤んだ眼が遠くを見つめた。遠くを見つめる眼差しに見覚えがある。僕は席を立って、マイルス・デイビスの『ビッチェズ・ブリュー 』をリクエストした。
ファンキーな電子音に甲高いトランペットが突き抜ける。それは波打つサバンナ、疾駆するバファロー、マサイ族の雄叫、アフリカの乾いた空と大地を連想させた。
突然、スコールの出来事が蘇った。そうだ!あの時の眼だ!放心した彼女の遠い眼差し、ゾッとするほど孤独で美しい眼差し・・驟雨に打たれて身もだえする彼女がフラッシュバックした。僕の血が逆流した。ワインを飲み干すとA子を見据えた。僕は挑むようにように言った。口外してはならないセリフであった。
「スコールの3P、最高だったんじゃないですか?」
一瞬、彼女はたじろいだ。僕から眼をそらし遠くを見つめた。横を向いた彼女の頬が赤くなった。鼻筋といい、潤んだ唇といい、顎(あご)から首のラインといい、完璧な横顔である。緊張した沈黙が続いた。グラスを持ち直すと呟いた。
「・・そうよ。」
瞬間、後頭部に衝撃が走った。激しい目眩(めまい)を覚えた。身体の下で愉悦するA子の姿態が生々しく蘇った。焼けるような視線を浴びながら、彼女は挑発するように淡々と語った。
「その通りよ、あの時、うちは相手もない、自分もない、砕け散って、もっと大きなもの、海というか、大洋というか、宇宙の中を漂っていたんよ・・」
潤んだ眼差しがあの時以上に妖しかった。
「宇宙の波動が収縮するたびに、強烈なエクスタシーが来たわ。それは凄い快感よ、経験したことのない感覚だった。孤独だったけど、宇宙の喜悦を感じていたわ。」
僕の眼が血走り、股間が猛り、今にも襲いかからんばかりであった。その時彼女はふいと席を立った。僕は水を注文して昂ぶりを鎮めようとした。しばらくして戻って来ると嬉しそうに告げた。
「彼が来はるけど、貴方、会ってくれはる?」
彼氏に電話したのだ。興奮は一気に醒めた。交尾寸前の雄犬に冷水を浴びせるようなものである。彼女がサバンナの黒人にうっとりするのは見たくない。僕は慌てて立ち上がった。
「バイトがあるからここで失礼します。彼によろしく・・」
彼女は出て行く僕を残念そうに見送った。
「・・彼からフランスに来ないかと誘われているの。」
浮かれた様子は無く、真剣に躊躇(ちゆうちよ)しているようであった。
「周りが次々壽(ことぶき)退職するけど、うちは結婚する気は無いし、それに主婦に興味はないし・・」