ハイビスカスの女
翌朝、僕は「クルージングを辞退する」と伝えた。奇妙なことに、Kさんは僕とのクルージングに拘った(こだわつた)。二人でクルージングしたいA子は不満そうであった。僕は二人の邪魔をしたくなかったから固辞したが、Kさんは執拗に誘った。もしかすると、妻子持ちのKさんは、A子と深入りするのを避けたかったのかもしれない。
「八重山海は素晴らしい珊瑚礁が一杯ある、しかし鮫がいるだろう。一人が海で、一人が船で、必ず見張りが要るんだ。」
鮫と聞いて、A子の不満げな表情が和らいだ。Kさんはさらに続けた。
「君は潜りが得意だろう。魚取りの達人がいると、豪華なディナーが出来るじゃない。君が潜ってタコやエビを採る、俺がシェフで料理する。彼女の差し入れたワインがあるしさ・・八重山の海で夕陽を見ながら海鮮ディナー!サイコーじゃない?!」
八重山海で海鮮ディナーか、僕の心が動いた。
それまで不興気味だったA子がおもむろに口を開いた。
「ヨットに乗るのは親に内緒やし、何かあったら大変やわ。貴方が一緒だと心強いし、それに・・」と大きな目を輝かせた。
「八重山の海上ディナーって最高やない!イイ思い出になりそう!」
顔がほころびすっかりその気である。
「うちらはたった三日のクルージングなんよ。貴方がいてはると楽しいし、きっと素晴らしいと思うわ。どうせ石垣に戻るんやし、一緒にクルージングせえへん。」
気遣ったA子に頼まれると断る理由は無くなった。彼らの八重山海クルージングに同伴することにした。
翌朝は空き家の片付けや村人への挨拶で手間取り、出航は昼過ぎになった。Kさんは試走をかねて西表島をクルージングし、その夜は島の人気のない入り江に停泊した。
夜の帳(とばり)が降りると空も海もなかった。
僕らはプラネタリウムさながら満天の星屑に包まれた。漆黒のビロードの空は億兆の金紗、銀紗をまき散らしたようである。タール状の海は瞬く星の反映か、夜光虫のきらめきか、数知れぬ光りが明滅していた。僕らは銀河のただ中に浮かぶ小舟だった。暖かい潮風が吹き抜け、さざ波がピタピタ船底を叩いた。
A子は西表まで駆けつけ、やっとKさんと一緒になれたのである。
切なかったのだろう、甘えたかったのだろう、二人は船首で肩を寄せ合っていた。僕は遠慮して船尾にいたが、二人の切ない様子が伝わった。
突然、A子がスクッと立った。無造作にシャツとパンツを脱ぎ捨てると、夜目に均整のとれた白い身体が浮かび上がった。乳白色に光る裸身は眩しかった。星明かりに女神のような神々しさであった。
火照りを冷やそうとしたのだろうか。バ~ン!しぶきを上げてA子の裸身が夜の海に躍り、夜光虫の中に浮かんだ。
「わあ~綺麗!蛍みたい!」
A子は嬌声をあげながらイルカのように回遊した。Kさんが脅かした。
「夜の海はやばいぞ!海坊主が足をつかむぞ~」
その途端、悲鳴をあげた。
「キャ~何かいる、助けて!」
何かに触れたらしいが、気のせいかもしれない。A子はパニックになって泣き出した。大丈夫か!Kさんが飛び込んでなだめ、僕が泣きじゃくる彼女を引き揚げた。一糸纏わぬ柔らかな裸身から海水が滴った。夜光虫が金粉のように張り付いていた。艶(なま)めかしい身体から女の色香が漂った。
嗚咽しながらA子は全裸のままマストにもたれていた。白い裸身が魚のように光り、張り付いた夜光虫が銀ラメのようである。それはギリシャ神話のマストに縛られた聖なる生け贄を思わせた。
怖かったであろう、驚いたであろう、Kさんは慰めるように、いたわるようにA子の髪を撫でていた。切なくなった彼女は唇を求めた。長い口づけだった。Kさんはゆっくり唇をずらせていった。口元から頬、頬からうなじ、うなじから胸、胸から乳房へ、ゆっくり、愛おしそうに唇を這わせていった。夜光虫を一つ一つ吸い取っていった。
やがて彼は生け贄の足下にひざまづき、そこだけ日焼けしなかった白い秘所に顔を埋めた。彼女は切なげに身をよじらせた。それは喘ぎながらマストに絡みつく妖しい白蛇であった。彼らは二匹の蛇となって官能の海に漕ぎ出した。Kさんが見るな!と手を振った。僕はキャビンにこもり目をつむり耳をふさいだ。
三
翌朝、キャビンに差し込む強烈な日差しで目覚めた。
燃える太陽が果てしない大海原の向こうから現れようとしていた。ライトブルーの空がオレンジに染まり、エメラルドグリーンの大洋が黄金のさざ波をたてている。雲がうっすらたなびく見事な朝焼けであった。白帆が眩しくはためき、Kさんが舵を握った。
「南西の風だ、絶好のセイリングだ!今日中に八重山を廻るぞ!」
ヨーシ!僕は錨を上げた。
その日は生涯に残る素晴らしいクルージングとなった。
見渡す限り視界はどこまでも目の眩むブルーである。大空は透明なブルー、大洋は深い藍色、水平線が魚眼レンズのように湾曲する。白雲が大小様々な帆船の形で流れていく。無窮の海と空を演出するのは光と風と雲である。
灼熱の太陽を遮る(さえぎる)ものは何も無く、熱をはらんだ海面から白雲がモクモク沸きたった。それが午後に巨大な積乱雲となってアルプスのようにそびえ、やがて厚い雨雲が広がって激しいスコールをもたらした。スコールは潮風と熱射で焼けた身体を癒やす天然シャワーである。僕らは子供のようにはしゃぎながらシャワーを浴びた。身体の触れあう船上で、僕らはA子との共同生活に馴れていった。
Kさんはスコールの風を巧みに捉え距離を伸ばした。
スコールが終わる頃には名もない無人島に滑り込んだ。積乱雲は砕けて無数の綿雲になり、西日が雲間から幾筋もの光芒を注いでいた。珊瑚礁の入り江に小さな虹が架かった。水晶の燦めくような入り江から群青の沖合に向かって伸びる七色のアーチ。それは僕らを祝福しているようであった。
僕らはしばし入り江の虹に見とれた。高みを増すほど蒼くなる空、鯨やイルカや亀など様々な形の雲、オレンジ色に発光する水平線。かくも無防備でかくも穏やかな海を見たのは初めてであった。世界は放心したように優しく大らかだった。今宵はきっと素晴らしい洋上ディナーになるだろうと予感した。
僕らは西日に染まりながら珊瑚礁の海に入った。僕は銛(もり)を片手に獲物を求めて潜った。KさんとA子は追いかけたり、抱きあったり、水中で戯れていた。
入り江の珊瑚礁は手つかずの自然で魚たちのパラダイスであった。スズメダイやフエフキダイが群れをなし、色鮮やかな熱帯魚が珊瑚をつつき、大きなエイがゆったり過ぎていく。波に砕けた光芒が海底にまだらの光輪を描く。そこをA子が足ひれをヒラヒラさせて横切っていく。乳白色に光る身体はまるで人魚のようである。
僕は短時間でタコを捕らえ、アワビを剥がし、エビとヒラメを突いた。シェフを自認するKさんはそれらを巧みに調理した。和風刺身で並べたり、オイルでフレンチ風にブレンドしたり、レタスやトマトの海鮮サラダも用意した。八重山海での野趣溢れる洋上ディナーであった。